日本史辞典

 

 私が所有している日本史辞典は、永原慶二監修『岩波日本史辞典 CD−ROM版』(岩波書店2000年)である。今のところ、頻繁に使用しているというわけではなく、主に気になった項目について断片的に調べているといった感じである。今回は、私が気になった項目について、雑感を述べていこうかと思う。

 先ず最初に気になったのは、卑弥呼である。従来の日本史辞典には、「卑弥呼は邪馬台国の女王」としているものが多かったのだが、これは誤りで、卑弥呼は倭国の女王である。さて『岩波日本史辞典』ではどうなっているかというと、
?‐247頃魏志倭人伝にみえる3世紀前半期の倭国の女王。卑弥呼は、太陽の霊威を身に着けた女性を意味する首長の称号。2世紀末頃,倭国の争乱の末に諸国の首長たちに共立されて王となった。邪馬台国に都し、楼観・城柵を備えた宮室を居処とし、鬼道とよばれる呪術行為をもって統治に当り、弟が国政を補佐した。239年以降,魏との外交を開いて<親魏倭王>に冊封さくほうされ、金印・銅鏡などを授かった。245・247年、狗奴国くなこくとの戦争に際し、魏から黄幢や檄を送られて支持されたが、その最中に死没。径百余歩の墳墓に葬られたとされる。
とあり、流石に最近の日本史辞典では卑弥呼を邪馬台国の女王とする誤りは犯していない。だがマスコミなどでは、今でも邪馬台国の女王卑弥呼との見出しが付けられることがあり、そうした点は今後訂正されるべきであろう。

 次は、近年論争の盛んな武士についてである。『岩波日本史辞典』では次のようになっている。
平安後期以降、常に武器を携行し、武力を行使することを社会的に認知された身分。古代以来弓射・騎馬の武芸をもって朝廷や国衙に奉仕した家の系譜をひく者、軍事貴族や地方豪族の子孫たち、あるいは有力な農業経営者が武装した者など。かれらは京都においては皇族や貴族に侍として仕え、地方にあっては,郡司や在庁官人としての公的権限や財力によって農地を開発し,在地領主となった。血縁・地縁・主従関係によって強く結束し、武士団を形成した。12世紀末、関東にあった多くの武士団は源頼朝を首長に推戴して鎌倉幕府を樹立。幕府は公家政権との接触・交渉を通じて、国家統治の権限と責任を分有するようになり、ここに為政者としての武士の歩みが始まった。しかし在地の武士たちは、鎌倉・室町時代を通じて、自己の所領の拡大をこととし、また荘園領主の支配を排除していった。やがて全国の武士たちは弱肉強食の戦国時代を現出した。その頃には朝廷は統治権を完全に失い、戦国の争乱を平定した武将が<天下人>とよばれて、武士が日本社会の支配層となっていった。
 先ず武士の定義について簡潔に記されていて、これはこれでよいと思う。続いて近年の論争の成果を取り入れ、朝廷と国衙への武士の深い関わりが述べられている。武士の発生を巡っては、各地の国衙を重視する見解と朝廷を重視する見解があり、双方の主張を取り入れている。「武士」で検索していたら、「武士の発生を国衙との関わり合いに触れながら論じよ」との問題が京都大学の入試で出題されたことを知ったが、大学入試に出題されるということは、武士の発生を国衙との関わり合いに求めるのが主流的見解ということだろうか。

 続いて楽市令である。従来、これは一般には、戦国大名が新規に打ち出した自由主義的経済政策、と考えられてきたが、私は、民衆により形成されてきた楽市場の慣行を保障したもの、またはその慣習を新規に建てた市場に取り入れた都市政策だと思うのである。中には、信長が初めて打ち出した画期的な自由主義的経済政策、とする見解もあるようだが、これは明白な誤りである。『岩波日本史辞典』では、「楽市・楽座」との項目で次のように述べられている。
戦国大名や織豊政権が、市場や城下町の繁栄を目的として発した法令。楽市場では市座が廃されて販売が自由であり(楽座)、また不入権・課税免除権・徳政免除権などが与えられ、市の外とは切離されて、外界の債務関係や敵対関係を持込んで平和的商取引を阻害するような行為は禁じられた。楽市場はもともと民衆の間で形成され、特殊な場として社会的に認められており、これを大名が商業・都市政策として吸上げたのである。なお公権力の楽市・楽座令の初見は、1549(天文18)近江六角氏城下の石寺新市のもの。
私は、この記述は妥当なものだと思う。こうした見解が最近では通説になりつつあるのだろうか。

 最後に長篠の戦いである。未だに、織田徳川連合軍が三千丁の鉄砲による三段撃ちという画期的な戦術で武田騎馬軍団を粉砕した、との理解が一般には根強いが、明らかに誤りである。『岩波日本史辞典』では、次のようになっている。
1575(天正3).5.21に織田信長・徳川家康連合軍が武田勝頼軍を三河国設楽郷あるみ原(愛知県新城市)で破った戦。徳川領への攻勢を強めた勝頼が長篠城を攻めると、家康は信長に援軍を要請。信長公記によると、連合軍3万が城の西の連子川の西方に柵を構えて布陣、1万5000の武田軍を<鉄炮千挺ばかり>で撃破し追撃して、重臣・雑兵1万ほどを討取り潰滅させた。
武田側の被害については誇張されているのではないかとも思うが、俗説を退けており、概ね妥当な記述になっていると言えるだろう。ただ、恰も鉄砲で勝敗が決したかのような記述にも受け取れるので、その点はやや疑問である。

 

 

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