兵農分離

 

 兵農分離は、武士と百姓とを身分的に区別するもので、中世と近世とを分かつ重要な指標とされている。また、兵農分離は先進的な政策で、これにより常備軍の創設が可能となり、軍事行動が時期的な制約から解放されたとされる。『岩波日本史辞典 CD−ROM版』(岩波書店2000年)では、兵農分離は以下のように説明されている。
武士と百姓・町人とを社会的・身分的に区別し、前者による後者の支配を実現する過程、あるいはその体制をいい、近世社会の基本原理をなす。中世の百姓には直接生産に携わる小百姓のほかに、下人・名子・被官など家内奴隷的な存在を隷属させ加地子を取得する名主百姓らの上層農民が存在した。彼ら上層農民の中には生産過程から遊離し、仕官して武士身分を獲得する者や商人に転じる者もあった。戦国大名検地は兵農未分離状態からの離脱をめざし、軍役賦課を通じて従来の上層農民を<軍役衆>と<百姓衆>とに差別化、家臣団編成の充実と年貢・夫役の確保を図った。このような方向性をさらに推進したのが織豊政権、とりわけ豊臣秀吉の実施した諸政策である。近世社会の生産力的基礎は単婚小家族を中核とする小農民経営にあり、太閤検地はこの小農民経営を全国的に展開する契機となり、一連の検地によって、村から離れ年貢を取得する武士と、村に居住して年貢負担を義務づけられる百姓との階級的差別が確定した。また、兵農分離の進展による武士の都市(城下)集住はかれらの需要物資供給のための商人・職人の都市居住を随伴させ、都市と農村の近世的な分業関係が展開することになる。

 従来、兵農分離は身分区別政策として理解されることが多かったのだが、ここでは、家臣団編成の充実と年貢・夫役の確保を図った、との記述に注目したい。つまり、軍縮・負担軽減としての兵農分離という側面に注目したみたいのである。
 戦国時代には、平時には農業などに従事している領民を戦いに駆り出すことが頻繁にあった。やはり、北条氏政が言ったように、戦いは兵力数で決まるところが多分にあるので、どの大名も、いざという時には領国内に総動員令を出すのである。この点、一種の国民皆兵制度が行なわれていたと言える。ただ、単に強制的に動員することはやはりできず、動員された者は、年貢や労役を免除されたり減じられたりしたのである。また、総動員令が出されない時にも出陣するような、戦闘員と百姓との区分が曖昧な者達は、年貢や労役の減免という特権を恒常的に有していた。
 こうしたことをやっていては、収入は減って支出は増えるだけで、故に、兵農分離を行なって武士(というか戦闘員)階層を限定して支出の抑制を図り、一方で百姓階層を固定して安定した年貢・夫役の確保を図ったわけである。つまり、大名権力は軍備を縮小し、一方で百姓の側からすると、従来負担していた軍役から免れることになったのである。

 兵農分離は、各地の戦国大名の領国で行なわれたが、それが特に進展したのは織豊政権においてであった。しかしこの点について、単に織田信長や豊臣秀吉の先進性、更には、兵農分離を他家よりも遥かに積極的に推し進めたために覇権を確立できたと理解したら、大きな誤りと言うべきだろう。何故なら、兵農分離は動員可能な戦闘員を減少させることになり、これを戦国時代に行なうのには大きな危険があるからである。
 確かに、兵農分離により軍事行動が時期的な制約から解放されるから、大きな利点が生ずる。しかし、結局戦いは兵力数に大いに左右されるので、戦国末期になっても、北条家や徳川家など総動員令を出している大名は決して少なくない。これは決して反動的な政策などではなく、戦国時代の大名としては当然の行動なのである。
 兵農分離を本格的に進展させられる条件としては、(イ)周囲の勢力を圧倒するだけの国力を有する (ロ)惣無事(統一による平和)の実現 のどちらかが挙げられる。つまり、兵農分離を本格的に進展させて戦闘員を減少させても、なお周囲の勢力に優越するだけの兵力を確保できる場合か、そもそも戦いなど起きない状況となる場合のどちらかにおいて、本格的な兵農分離は初めて可能になるのであり、兵農分離を行なった結果勢力を拡張できたというよりも、勢力を拡張できた結果兵農分離を進展させた、と考える方が妥当だろう。

 例えば、織田家は本格的な兵農分離を先駆者的に行なった結果、勢力を大いに拡張できた、との説明がよくなされるが、これはかなり疑問である。織田家で最初に本格的に兵農分離が行なわれたのは越前であった。織田は朝倉を滅ぼした後、旧朝倉家臣団の越前での支配を殆どそのまま認めたが、旧朝倉家臣団は重税を課し、一向一揆を主とする一揆勢力の蜂起に遭って殆ど壊滅してしまった。だが、その後に本願寺から派遣された坊官団も重税を課して現地の一揆衆の反感を買い、越前は内紛状態となってしまった。
 流石に信長は抜け目がなく、この機を逃さず越前に軍を派遣して再占領することに成功した。織田家の再占領時には、旧朝倉家臣団や一向一揆の指導者層の多くが消え去っていて、越前は一種の無主状態になっていた。こうした状況の越前において、織田家による本格的な兵農分離は先ず行なわれたのであった。それは1570年代半ばから後半のことであり、この頃ともなると、確かに本願寺勢力には苦戦を強いられていたものの、織田家の勢力は周囲を圧倒するものとなっていて、多方面作戦も可能となっていた。
 織田家が勢力を拡大するにつれて兵農分離は進展していったのだろうが、それが一応の完成を見るのは、惣無事を達成した豊臣政権においてである。こうしたことから、従来、織田政権は豊臣政権と連続しており近世に属すのか、それとも豊臣政権とは一線を画すもので中世に属す、つまり戦国大名の最終形態なのか、ということが議論されてきた。私は、織田政権が中世か近世かといった議論には、その前提からして疑問を抱くが、戦国大名か統一政権かという点で言うと、少々安易ではあるが、戦国大名から統一政権への過渡期的政権だったと位置付けるのがよいと考えている。

 

 

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