刀狩と非武装化

 

 今回は、朝日百科の日本の歴史別冊『歴史を読み直す15 城と合戦』(朝日新聞社1993年)の中の、藤木久志「戦いの後に−三つの刀狩」に大きく依拠して、表題の件について述べていく。

 永原慶二監修『岩波日本史辞典 CD−ROM版』(岩波書店2000年)では、刀狩の説明は以下のようなものである。
武力統制の実力行使を意味するが、一般には豊臣政権がすすめた農民の武装解除政策をさす。秀吉による刀狩に先行するものとしては1575(天正3)織田政権下で越前を領した柴田勝家による<刀ざらえ>が知られている。秀吉も85年紀州平定ののち百姓の弓矢・槍・鉄砲・腰刀の所持を戒めているが、88年7月に百姓の武具所持を禁じた3か条の<条々>を発布、これを刀狩令と称する。そこでは諸国の百姓が刀・脇差わきざし以下の武具を所持することを禁じ、大名給人にそれらの取集めを命じた。また、没収した武具は造営中の方広寺大仏殿の釘などに利用するので来世の救済が約束されること、したがって以後百姓は農事に専念すべきことを説いている。刀狩が一揆停止を目的としたことは当時から衆知されていたが、諸大名領での実施にあたっては、その形式的側面も否定できず、これによって百姓が完全に武装解除されたわけではない。したがって、この政策が武具没収を主眼とはせず百姓の武装禁止を目的とした身分制的な性格をもつとみる立場もあるが、従来百姓がもっていた自律的諸権利を大きく制限するという体制の意思表示が<刀>の奪取というかたちで表明されたとも考えられよう。

 豊臣政権下の刀狩により百姓の武装解除がなされた、とする見解は根強いが、上記説明にあるように、その形式的側面は否定できず、その意図は、百姓の徹底的な非武装化にあったというよりは、寧ろ身分標識の規制と百姓の間での武力解決(自力救済)の禁止にあったと言え、刀狩を兵農分離政策の一環として認識することも充分可能であろう。
 実際、刀狩の結果没収された武器はというと、例えば北陸では総数4000のうちの殆どが刀と脇指で、弓矢や鉄砲は皆無であった。実戦の武器としては、刀よりも弓矢や鉄砲といった飛び道具の方が遥かに重要だったわけで、戦国時代には成人男性の殆ど全員が脇指を差していたことからしても、刀狩の身分規制的性格が強く窺える。
 秀吉は、百姓の武器は凡て奪え、と命令したが、実際には、狩猟・耕作(現在も行われている、耕作の妨げとなる「害獣」の駆除というやつである)・祭り・裁判の際の身分標識といった名目で武器の所有が認められており、刀狩後も、依然として公然と多くの武器が所有されていた。
 徳川政権の武器統制は豊臣政権より緩やかだったくらいで、百姓の帯刀(二本差)は17世紀末まで形式的なもので、その後も一本差は規制されることがなかった。鉄砲は厳しい免許制となったが、「害獣」駆除や狩猟など生業のための鉄砲所有は認められ、江戸時代を通じて鉄砲の保有数は増加していったという。

 では、現在のような日本人の非武装状態はいつなされたのだろうか。明治政府は徳川政権に倣って鉄砲は登録制とし、刀に関しては、1876年の廃刀令により、帯刀は官吏・軍人・警官に限るとした。だが、刀を何かに包んで携帯する限りは、民衆もお咎めなしとした。結局、廃刀令も刀狩と同じく、主要な意図は身分標識の規制にあり、明治時代になって日本人の非武装化が実現したわけではなかった。
 非武装化が達成されたのは、敗戦後のことであった。1945年、占領軍は日本国民の武装解除令を出し、これを受けた日本の警察はこれを好機とし、隣組ごとに徹底した民間の武装解除を強行した。その結果、たった半年で、刀だけでも90万本以上が押収されたという。
 現在のような日本人の非武装状態は、第二次世界大戦における敗戦の結果起きたことであり、刀狩による民衆の非武装化というのは、敗戦後の状況から作り上げた幻想であり、創られた伝統と言うべきだろう。

 

 

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