古代貴族の歴史観(其の二)

 

 『日本書紀』は神話から始まる。大抵の地域や共同体においては、歴史の始まりは神話から語られるのであり、神話を排した歴史が一般的となるのは、文字による記録が行われるようになったこの5000年間でも、ごく最近のことである。勿論、合理主義の発達に伴なって、神話や神話もどきの説話への疑念は呈されるようになっていたのであり、中国などは、そうした傾向が世界でも最初期に認められる地域と言えるかもしれないが、それはともかく、一般的には、神話を歴史の起点に置くことが圧倒的に長期に亘って行われてきたのであった。
 人間が自らの起源と来歴について関心を抱くのは普通のことで、人類学や遺伝学などの確立していない時代にも、その時代の知見と価値観により、自らの起源と来歴が考えられていたのであり、何分よく分からないことだけに、自らの起源を不可知的な存在であると考えていた神に結び付けたのは、自然なことであった。
 そう考えると、『日本書紀』が神話から始まっているのも当然であり、古代貴族の価値観・歴史観が反映された結果であると言える。無論、天皇家や各氏族を直接・間接に神と結び付けることにより、支配の正統性と自らの高貴性を証明せんとの意図もあったわけだが、別にそれは必ずしも神に根拠を求めなくても可能なものである。神に自らの根拠を求めたのは、人間の起源を神との密接な関係に求める歴史観というか観念が広く浸透していたからでる。

 古代貴族の歴史観では、神と直接・間接に結び付けられた天皇家や各氏族は、いきなり神から人になったのではないようで、前之園亮一氏が論じられているように、その間に過渡期が設定されていると思われる。つまり、神と人との性格を併せ持つ人物がいたとの設定になっているのである。
 『日本書紀』に見える初期の天皇は、驚くほど長命である。初代の神武から15代の応神まで没年齢は順に、127・84・57・77・113・137・128・116・111・120・140・106・107・52・110、となる(現在では天皇と数えられていない神功は100歳で没)。応神より後は、没年齢が不明な場合が多く、判明している場合も、一応は常識の範囲内に収まっている。このような長命は、応神以前は天皇が未だに神と人との中間的存在である、と理解されていたからで、異様な長命も何ら不思議ではない。
 一方で、推古朝に建国の年代を大幅に繰り上げた結果、各天皇の寿命が大幅に引き延ばされた、との見解もある。この見解を全否定するつもりはないが、更にはそこから、『日本書紀』に見える歴代の天皇は実在していたのであり、初期の天皇の不自然な長命も、無理に建国の年代を繰り上げたためで、初期の天皇が架空の人物だとしたら、このような不自然な寿命にするのではなく、適当に更に何代かの天皇を創作して、それぞれの天皇の寿命をもっともらしいものにすればよい、との見解も提示されており、こちらは全くの誤りであろう。神と人との中間的存在である天皇が常識外れの長命であることは、古代貴族の歴史観に沿ったものであり、彼等にとって不自然なことではなかったのである。

 

 

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