古代貴族の歴史観(其の三)

 

 『日本書紀』では、最初から天皇の支配が「日本」全土に及んでいたとされているわけではない。天皇の支配が「日本」全土に及ぶ(「全国支配」も、古代貴族の歴史観というか、観念・理想・願望なわけだが)に至った経緯についても、古代貴族なりの歴史観があり、それに沿って『日本書紀』は編纂されたのである。

 後に初代天皇となった彦火火出見(神日本磐余彦天皇または神武天皇。以下、歴代の「天皇」に関しては、「実在」か否か、「即位」前か後かに関わらず、表記は後代の漢風諡号で統一する)が、元は日向(現在の宮崎県)にいたことはよく知られている。神武は45歳になった時、東征を決意して出立するわけだが、その際の決意表明は、大略次のようなものである。
 昔、天神がこの国を我が祖先に授けられ、代々祖先の神々はこの西のほとりを統治して善政をしいてこられ、恩沢がゆきわたった。だが遠国では、まだ王の恩恵を受けず、邑(ムラ)には君(キミ)が、村(アレ・フレ)には長(ヒトコノカミ)がいて、境を分かって相争っている。さて、塩土老翁(シオツトノオキナ)に聞くと、東方によき地(クニ)があり、青い山に囲まれていて、天磐船(アマノイワフネ)に乗って飛び降りた者がいるという。余が思うに、その地(クニ)は大業を広め、天下を治めるのに充分であり、国の中心となろう。何としてもそこへ行き都としよう。
 先ず、この国の統治権が神により自らの祖先に与えられたこと、故に自らの全国支配が正当なものであることを述べているが、だからといって当初より全国支配がなされていたと主張しているわけではない。邑や村といった単位で首長がいて、それぞれ境界を争っているというのである。現在の訓読みでは共に「ムラ」という邑と村とが別に記述されているのは興味深いことで、知見不足なので見当外れの説明になっているかもしれないが、村の連合体が邑で、邑同士で境界を争っているのみならず、その邑を構成する村同士でも境界を争っていて、村にせよ邑にせよ強固な政治組織ではないことが窺える。古代貴族が、邑が後の国(武蔵国や河内国という際の国である)か郡の前身だと考えていたとしたら、当初より全国支配がなされていたわけではない、ということのみならず、各地方単位での政治統合も元来は強固なものではなかった、と認識していたわけで、古代貴族の歴史観を知る上で実に興味深いことではある。
 まあそれはともかく、神武が東征に出る前までは、天皇家の支配領域は九州南部の一部程度で、各地は境界を相争い分裂していた、というのが古代貴族の歴史観であった。日向を出立した神武一行は、各地に立ち寄りながら河内(現在の大阪府)の青雲白肩津に着き、ここから中洲(ウチツクニ)に入ろうとしたが、この地に勢力を持つ長髄彦の抵抗に遭い、兄を失うなど苦戦しつつも、勝利した。この中洲とは、後に橿原宮を建造させてそこで即位したことなどからして、奈良盆地南部を指す狭義のヤマトのことなのだろう。
 初期の天皇の宮が狭義のヤマトに集中していることから推測すると、ヤマトこそ天皇家と国家の発祥地・本拠地であると古代貴族は考えていたようで、神武東征説話は、神の子孫である天皇家が如何にしてヤマトを根拠地とするに至ったかという問いに対する、古代貴族なりの説明だったと思われる。それなら、日向ではなく最初からヤマトに下ればよさそうなものだが、太陽神的性格の強い天照大神の子孫である天皇家の降臨先としては、ヤマトよりも日向の方が相応しいと考えられたのだろう。
 神武東征説話は、例えば天皇家の祖先が九州より東征してヤマトを征服したといった、天皇家と国家の発祥に関する事実を何らかの形で反映しているのかもしれないが、私は、その可能性は高くはないように思う。神武東征説話は、天皇家と国家との成立事情を伝えたものではなく、古代貴族の歴史観を色濃く反映したものだと思う。ただ、神武東征説話が全くの創作かというとそうではなく、やはり何らかの史実を反映している可能性は高く、水野祐氏などが指摘されているように、神武のヤマト平定説話は、壬申の乱における天武側の進軍が参考にされたのだろう。

 

 

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