古代貴族の歴史観(其の四)

 

 長髄彦を倒した(饒速日命が殺害したわけだが)神武がその後にやったことはといえば、一部周辺地域の平定、橿原宮の建造、そこでの即位、といったあたりである。即位2年前の令に、周辺がまだ鎮定されていない、とあることからも、神武の平定した地域はヤマトとその一部周辺に留まっていたと言えよう。
 その後の2〜9代の天皇については、いつ都(宮)をどこに移したか、いつ誰を皇后・皇太子にしたか、いつ亡くなったか、ということが簡潔に記されているだけで、これといって目ぼしい事跡はない。ただ、弟2代の綏靖に関しては、即位前の兄との争いがやや詳しく描かれている。このことから、2〜9代の天皇は実在しなかったとするのが一般的見解で、欠史8代と呼ばれている。

 さて、この大した事跡のない2〜9代の天皇は、古代貴族の歴史観においてはどのような存在だったのだろうか。この問題については、遠山美都男氏が『天皇誕生』(中央公論新社2001年)において興味深い見解を提示されている。遠山氏は、『日本書紀』編纂時は皇后は皇族から選ぶのが一般的なのに、欠史8代の場合のみ例外的に県主の娘から皇后が選ばれていることに着目された。『日本書紀』本文では県主出身の皇后はこの間も1人だが、異伝と『古事記』では県主出身の皇后が多い。県主とは県の中心に祭られている神々の祭祀を統括する役目を世襲した神官的な氏族で、大和の名家ではあったが、皇后を出す程の家柄ではない。欠史8代は、大和の名家と婚姻関係を結ぶことによって奈良盆地とその周辺に勢力を浸透させていった、という役割を担わされたのではないか、と遠山氏は論じられている。
 この遠山氏の見解は、大筋は妥当なものだと思う。欠史8代は、県主や物部氏や尾張氏や穂積氏といった、『日本書紀』編纂時には到底皇后を輩出できないような家柄から皇后を立てていることが多い。物部氏も、神武より先にヤマトに降り立っていた天孫族の饒速日命を祖とするとされているのだから、天皇家より先にヤマトに勢力を有していたという設定になる。欠史8代は、神武のヤマト平定の跡を受けて、ヤマト土着や近隣の豪族と婚姻関係を結んでいくことで、ヤマトとその周囲に勢力を浸透させていった時代であった、というのが古代貴族の歴史観であったと思われる。

 欠史8代の後に来る崇神は、古代貴族の歴史観において画期とされていると思われるので、ここで今まで述べてきたことを、今後述べていく予定の見解も一部含めて纏めてみる。
 ヤマトを根拠地とする古代貴族は、自らの「全国支配」が領域的にも質的にも長い時間をかけて徐々に達成されてきたとの歴史観を持ち、「日本国」支配の根源的な正当性が神々との直接・間接の連続性(天皇家の場合は直接的な連続性となる)にあると考えていた。そこで、『日本書紀』において先ずは「天界」での神話を、続いて「俗界」への降臨を述べた。『日本書紀』編纂時には太陽神的性格が強い天照大神が皇祖神とされていたので、降臨先には日向が選ばれた。無論、日向のような地名は各地にあったのだろうが、遠山美都男氏が述べられているように、『日本書紀』編纂時には現在の宮崎県である日向が最も有名で、そのために降臨先に選ばれたのだろう。
 この時点では、支配領域は日向の一部程度である。ここから、古代貴族の根拠地とされていたヤマトに移らなければならない。そのため、後に初代天皇となる人物が東征してヤマトを平定すると考えられ、その結果創られたのが神武東征説話だったが、この時点でも支配領域はヤマトとその周辺の極一部である。その後、2〜9代の天皇は、ヤマトとその周辺に勢力を有する豪族と婚姻関係を結んでいくことで、それらの地域に勢力を徐々に浸透させていったが、それでも支配領域は神武の頃と大して変わらず、天皇は未だに神と人の両方の性格を有していた、というのが古代貴族の大まかな歴史観である。
 要するに、古代貴族の基本的な歴史観は、自らを神々と直接・間接に繋がるとし、根拠地・発祥地であるヤマトから次第に勢力を浸透させていき「全国支配」を達成したというもので、それに加えて、皇祖神の性格との整合性から神武東征説話が創られたのではないか、というのが私の現時点での考えである。

 

 

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