武士
近年、武士を巡って活発な議論がなされていて、私などは全体像を大まかに把握するのさえ困難に思っているくらいだが、それでも実に興味深いものだと注目している。何と言っても全体像の大まかに把握さえ困難なくらいだから、今後読書量が増えるにつれて、自分の見解が大きく変わっていく可能性もあるが、現時点での雑感を述べていきたい。
そもそも、武士とはどのように定義されるのだろうか。この点について、以前は根本的な問い掛けはあまりなされず、武士がどのような存在かは自明のこととされてきたのではなかろうか。私は、小学校生や中学生の頃に色々と入門書的な歴史本を読んだが、武士がどのような存在なのか、今ひとつ分かりにくいところがあった。当時読んだ殆どの本では、有力農民が自らの土地を守ったり拡大したりするために武装したのが武士の起源と説明されていたが、ちょっとよく分からないところもあった。
鎌倉末になると悪党と呼ばれる人が目立ってくるが、彼等は普通武士とは呼ばれないし、南北朝〜戦国時代にかけて武装した農民が表舞台に登場するが、彼等も武士と呼ばれることはない。そうすると、武士とは単に武装すればよいというものではないとは理解できたのだが、だからといって、どういう条件を満たせば武士と呼べるのか、小中学生にも分かりやすく平易に説明した本には結局出遭えなかった。
その後、武士の定義への関心は薄れて、この問題を深く考えるということも暫くはなかったのだが、題名に惹かれて『歴史を読みなおす8 武士とは何だろうか 「源氏と平氏」再考』(朝日新聞社1994年)を購入して読んでからというもの、再び武士に関する問題に強い関心を抱くようになった。恥ずかしながら、この本(雑誌と言うべきかもしれないが)を読むまでは、武士=芸能人説というものを全く知らなかった。だから、最初に「武士は芸能人である」との一節を読んだ時は大変戸惑ったものだが、その後読み進むにつれて説得力のある見解だと思い、年来の疑問が氷解していった。
武士=芸能人説(職能的武士論)に立てば、武士とは武という芸(技術)によって他者と区別される社会的存在である。当時、技術(芸能)は人から人へと個別・即物的に学習・伝達されたから、限られた人間集団・家系で技術を独占し公開しないという職業的利害が作用すると、技術(芸能)は特定の家系にのみ伝えられる家業・家職となり、武士の場合にも「兵ノ家」や「武芸の家」や「武器の家」が出現した。武士と社会的に認知されるには、単に武装して武芸に秀でているだけでは充分ではなく、「兵ノ家」の「家ヲ継ギタル兵」でないといけない。
大変興味深く説得力のある見解だと思うが、こうした武士見直し論の近年における中心的研究者とも言うべき高橋昌明氏は、その後『武士の成立 武士像の創出』(東京大学出版会1999年)において、武士とは社会的分業が家業の形態をとる歴史段階において成立する職業身分の一つ、と更に簡潔に武士の定義について述べられていて、なるほどと肯かされた。職能的武士論は今ではかなりの支持を得ているように思われる。
武士の発生を巡る議論についても激論が闘わされているが、私は、武士の源流は都にあるとする見解に惹かれる。従来、武士と貴族とをあまりにも対照的な存在と認識するのが一般的で、それ故に武士の起源は地方の農村にあり、とする見解が浸透してきたところもあると思うが、この見解については、かなりの部分が後世の観念である可能性が高いのではなかろうか。
こうした点も含めて、今後も武士については関心を持って考えていきたい。