一族支配

 

 統治に際して一族をどう処遇するかというのは難問であり、一族は毒にも薬にもなり得る存在と言えよう。

 中国史上初の統一国家を築いた始皇帝は、封建制と郡県制のどちらを統治制度とすべきか家臣達に問い、李斯の進言を採用して郡県制による統治を行なった。つまり、一族を排した統治である。秦は始皇帝死後の反乱により脆くも瓦解し、秦の統一は10年程しか保たれなかったが、その一因は本家を守るべき藩屏が存在しなかったことにあると考えられた。
 そのため、秦末からの戦乱を平定して統一国家の漢を築いた劉邦は、郡県制と封建制を併用した郡国制を採用した。全国を漢王朝の直轄地と諸侯・諸王の封邑地とに分けたのである。当初は、一族(同姓)のみならず異姓の者をも王に封じていたが、これら異姓の諸王は劉邦一代で概ね粛清されてしまい、諸王は一族で占められることとなった。だが、戦国時代からの中央集権化の流れは止まることはなく、中央政権は次第に地方諸王への締め付けを強めていき、諸王の方も潰される前に反撃に出ようとして、遂に呉楚七国の乱となったが、結局は中央政権の勝利となり、ここに中国の中央集権化は概ね達成されることになった(完成したのは次代の武帝の代になってから)。
 漢は一度王莽の新に簒奪されて滅びたものの、すぐに劉氏一族の反乱に遭って新は滅亡し、反乱軍の中から劉秀が頭角を現して漢王朝を復興した(後漢)。後漢は黄巾の乱で決定的に衰え、以後各地に軍閥が割拠することとなったが、その中から曹操が頭角を現して魏を建て、曹操の後継者となった曹丕は後漢王朝最後の皇帝である献帝より禅譲を受けて新王朝を樹立した。
 曹丕は熾烈な後継者争いを経験したためなのか、それとも呉楚七国の乱を教訓としたためなのかは分からないが、一族の者、ことに弟達を冷遇した。勿論、曹一族で高位にいた者は多かったが、漢王朝前期のような広大な領地と支配権を与えられた一族はいなかった。曹丕にしてみれば、一族に巨大な権限を付与して藩屏としても却って害をなすばかりだ、ということなのだろうが、強力な藩屏がいなかったため、司馬氏が簒奪に乗り出すと、これを防ぐことができなかった。
 魏に替わった晋は、魏が一族を冷遇したことへの反省に立ち、一族を重用して各地に王として封じ、藩屏としての役割を期待した。だが、これが却って裏目に出てしまい、強大な権限を握った諸王は更なる権力を求めて闘争を始め、晋は内乱状態に陥って衰退してしまい、匈奴に滅ぼされた。一族の処遇というのは何とも難しいものである。

 日本における一族支配については、戦国時代〜江戸時代が興味深い。戦国大名の中には、正妻の子供と側室の子供との処遇に明確な差をつけようとした者が多く、毛利元就も織田信長もそうだと言える。もっとも信長の場合は、正妻の子ではない信孝を重用してはいるが、それでも実質的に正妻の子であった信忠と信雄には及ばない。
 織田氏は本能寺の変で信長と信忠が横死すると政権担当者の地位を保てなくなり、異姓の羽柴秀吉が織田政権を引き継ぐ形になった。秀吉は、織田政権に藩屏が少なかったのが織田氏没落の一因と考えたのか、積極的に一族の者を重用していった。とはいっても、秀吉は信長と比較して実子には恵まれなかったので、一族の者や他家の者を擁し養子に順ずる扱いとして、擬似的な要素の強い豊臣一族を築こうとした。だが、持ち駒の少なさと時間の短さは如何ともしがたく、死後に徳川氏にあっさりと取って代わられ、秀吉が必死に築いた藩屏も一致団結して豊臣家を守るとはいかなかった。
 徳川家康は30代で正妻と嫡男を失い、天下を手中にした段階では男子は側室の子しかいなかったためもあってか、母親の身分には関係なく子供を重用していき、徳川政権の藩屏としていった。その家康の意図は見事に結実したと言うべきで、鎌倉幕府の時のように宮将軍を迎えようとの動きがあった時も、強力な藩屏の存在がこれを阻んだし、直系が途絶えた時も、親藩から後継者を迎えて徳川将軍の断絶が防がれた。
 これは単に運がよかったというだけではなく、家康の周到な方針が徹底されたからでもあり、幕政に携わって重要な権限を握ることができる者は石高の少ない親藩・譜代だけで、石高の多い親藩・外様大名は、実質的な幕政の権限のある役職には就けなかった。家康は、歴史を教訓として見事に一族を活用したと言えよう。

 

 

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