文明の起源
そもそも、文明をどう定義するかということが難問なので、文明の起源などといった議論は上滑りしてしまいがちではあるが、歴史雑文は私の思い付きを述べていく場なので、現時点での雑感を述べていきたい。
文明の定義は色々とあろうが、(1)普遍性と伝播力がある(2)地理的時間的広がりがある(3)高度な社会機構と文化が存在する、といったところを私は考えている。とはいえ、「高度」とはどのような基準で判断するのかという問題もあり、正直なところ、現時点では結局のところ曖昧な基準しか提示できない。もう少し具体的な条件を考えてみると、階層社会と「国家」をも含む各種社会制度の発達・文字と金属器の使用・「高度な」学問や芸術や文学の発達、といったところである。無論、これら全てを備えている必要はないとは思うが、これらの条件のうち多くを備えたものを、文明と認める、というのが現時点での私の考えである。
こうした観点で文明の起源について考えると、始原的というか第一次的な文明としては、エジプト・メソポタミア・インダス・中国・中米・南米といったものが挙げられるように思う。中央アジアという枠組みで一つ始原的な文明圏を提示してもよいようにも思うのだが、私の中央アジアについての知見は著しく不足しているので、現時点では何とも言えず、今回はこの点は措いて論を進めていきたい。
こうした第一次的な古代文明が何を契機として成立したかという問題は古くから論じられてきていて、人々の関心を惹くところである。その答えの一つとして、これら古代文明には一つの根源地があり、そこからの影響で各地の古代文明が成立したのだとする文明一元論がある。文明一元論に立てば、私が第一次的とした多くの古代文明は実は第二次的なもので、文明成立の契機として根源地からの影響があったということになる。だが文明一元論でも、最初の文明がどのような契機で成立したのかという問題は残る。以下、文明がどのような契機で成立したのかという問題について私見を述べていく。
現在私は文明多元論を採っているが、文明一元論にも着目すべき発想は残されているように思う。つまり、他者・異質な者の影響が文明成立の契機となったという点である。それはどういうことかというと、異質な要素・地域の相互交流・融合により第一次的な文明が成立したのではないか、多様性に富んだ地域こそ文明の成立と伝播に有利だったのではないか、ということである。エジプトにせよメソポタミアにせよ中国にせよ、最初からそのような枠組みで括れる文明圏なり地域が存在していたわけではない。異質な要素・地域が多数存在し、それらの間での相互交流・融合により、より巨大な文明圏・地域が成立したのではなかろうか。
エジプト文明の成立には、北アフリカの乾燥化に伴うナイル流域への集住があったとされており、正に異質な要素の融合の結果成立した文明である。そのエジプトを大雑把に分けると、南北二つとなる。無論、これは大雑把ということであり、実際には南北それぞれにおいても「内部」に違いがあろう。エジプトが南北二つから成るとの観念はかなり強く、後代まで存在した。メソポタミアも南北で違いがあるが、ここはエジプトよりも周囲に開けた地形なので、様々な要素が流入することになり、その結果文明が成立した。
中国は何よりも土地が広大で、東西南北に多様な世界が存在した。よく黄河流域と長江流域が比較され、前者において現在に繋がる中国文明が成立したとされるが、実際には黄河流域と長江流域との間には相互に交流があり、その結果成立したのが中国文明であった。また、黄河流域・長江流域とはいっても、実際には上流と下流とでは随分と異なる地域である。中米や南米は、文明圏自体の広がりはさほど大きいとは言えないかもしれないが、両地域とも高低差のある地形のため、生活形態は多様性に富んでいる。
勿論、多様性に富んでいれば第一次的な文明が必ず成立するというものでもないが、そうした地域が有利ということは言えるのではなかろうか。