日本の中世

 

 戦国時代についての叙述の中に、中世的価値観・体制への挑戦といった表現がよく出てくるが、そもそも日本における中世とは何なのだろうか。永原慶二監修『岩波日本史辞典 CD−ROM版』(岩波書店2000年)では、以下のように説明されている。

古代・中世・近世の三つの時代区分の一つ。西欧の歴史学を学んで、日本の歴史にあてはめたもので、古代社会が衰退してから、近世社会が生れるまでの時期を称している。開始の時期は論者によって様々であるが、10世紀から12世紀にかけての時期が一般的に考えられており、終りは16世紀が考えられている。古代や近世が明確な集権国家の様相をとっていたのに対して、中世は権力の分権を基調としていたことから、開始時期については不鮮明である。本辞典では11世紀の後三条天皇の時代からを中世として扱っているが、それは社会経済のシステムとしての荘園公領制が明確な制度として登場し、政治体制としての院政も萌芽として見えるようになったのがこの時期だからである。荘園公領制と院政とは、分権化に対応したシステムであった。この後、院政時代に続いて鎌倉幕府の生れた鎌倉時代、南北朝の対立のあった南北朝時代、室町幕府が確立した室町時代、各地に戦国大名が支配権を握った戦国時代を経て、織田信長と豊臣秀吉の統一政権によって権力の分立は克服され、荘園公領制も最終的には終焉を迎えることになる。中世社会は常に在地からの動きによって新たな社会の変動が生れており、その在地の担い手は武士から村落の百姓に変化してゆき、そこを布教の対象とした宗教が重要な役割を果した。古代から続く未開的な要素を基調としつつ、新たに生成した価値とが混交して日本列島の社会の今日の原型をつくりあげた時代と評価されている。

 日本史における中世とは、元来は西欧の歴史学における時代区分を当て嵌めたものということになる。ここで疑問に思うのは、従来、戦国時代における「宗教勢力」を一纏めに中世的勢力とし、これと厳しく対峙することは近世的性格の現れだとする傾向があることである。
 
中世社会は常に在地からの動きによって新たな社会の変動が生れており、その在地の担い手は武士から村落の百姓に変化してゆき、そこを布教の対象とした宗教が重要な役割を果したともあるが、中世の「宗教勢力」といえども一律に論じることは難しいのではなかろうか。西欧歴史学を基に日本で組み立てられた時代区分観に立てば、例えば法華宗や一向宗などは、寧ろ近世的性格を持つ宗教のように思われる。この点について、例えば宮崎市定氏などは、鎌倉新仏教を日本における近世的特色の現れと解釈されていた。
 広く歴史を見ると、中世は宗教が大きな力を握っていた時代であるかのようにも思われる。私も嘗てはそう考えていて、一向一揆や法華一揆と東大寺や延暦寺などを同じく宗教勢力と見做していたが、近年はどうも違うのではないかと考えている。一向一揆は、高度成長期まで続く日本の伝統社会の成立期に浸透していった新興宗教であり、実際、織田氏に「敗北」した後に一層勢力を拡大しているくらいである。中世的存在として近世的織豊政権に敗れ去ったというわけではなかろう。

 西欧の歴史学における時代区分を当て嵌めたためか、日本史における中世という概念には、色々と無理があるように思われる。では、私が替わって新たな時代区分を提示できるかというと、それは私の見識からして到底無理ではあるが、日本史を考える際に、あまり中世的・近世的といった概念に囚われると、実態を見失うことも多かろうと危惧する次第である。

 

 

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