信長の野望(其の一)序論

 

 織田信長については何度か述べてきたが、断片的なものだったので、改めて現時点での考えを述べていくことにする。尚、これから続く(筈の)「信長の野望」においては、便宜的に、全て西暦で統一する。また名前は、改名時期に関わらず、原則として最も著名と思われる名前で統一する(但し、あまりにも不自然に思われる場合は、適宜使い分ける)。例えば、本当は西暦1560〜1561年に亘っている永禄3年は1560年に換算し、何度も改名している上杉謙信は、時期に関わらず「上杉謙信」で統一する、といった具合である。
 「信長の野望」は、連載が完結したら纏めて駄文に掲載する予定である。注はその時に付すこととし、気軽に思い付きを書いていく歴史雑文では、注は省くことにする。

 現在の日本においては、不況・既得権とも密着した腐敗・道徳心の低下といった現象が指摘され、日本の将来に不安を抱く人は決して少なくない。構造改革が必要だとは言われているが、それを不退転の決意で行なおうとする行動力と決断力のある政治家はなかなか現れない、と一般には考えられている。
 こうした状況の日本において、信長礼賛論が勢いを増しているように思われる。戦国時代に、既得権にしがみ付く旧勢力と徹底的に戦い、新しい時代を築いた信長の如き果断な決断力と行動力のある政治家が現れないものか、というわけである。このような文脈で語られる信長は、既成の概念に全く囚われず独創的・先進的な天才的人物である。
 一方、こうした信長礼賛論というか信長に対する反感もあるが、それらの中には、旧勢力との徹底的な戦いを認めつつも、その際に見られた信長の残虐さや破壊を批判するものも多くあり、これでは、信長礼賛論の裏返しにすぎず、同じ枠組みの中で信長を論じていることになる。
 では、信長の独創性・先進性・天才性の根拠は何かというと、信長は戦国時代に**をしたから、というもので、具体的には、他家に先駆けての鉄砲の大量装備や楽市楽座や関所の撤廃や兵農分離などである。だが、ここで問題となるのは、信長礼賛論の多くが、**を戦国時代に行なうと何故天才と言えるのか、果たしてそれは信長の創案になるものなのか、明確には説明できていないというか、所与の前提としてしまっていることで、結果として、「信長は天才だ→何故ならば戦国時代に**を行なったからである→戦国時代に**を行なうのは天才だ→故に信長は天才だ→信長の天才性は**戦国時代にをしたことからも明らかだ」というトートロジーに陥ってしまっているのである。
 本当に信長が**を行なっているのならまだよいが、中にはそう言えるのか疑問のあるものもあり、また、本当に信長が行なったものの中には、信長以前に他の大名が既に行なっていたものもある。そういうわけで、信長礼賛論の根拠とされてきたものの中には、疑問を呈さざるを得ないものが多い。
 だからといって、信長が平凡な人物だったと主張するわけではなく、戦国時代に信長ほど勢力圏を拡大し得た大名は他にはいなかったわけだから、優れた大名であったことは間違いない。ただ、過大評価や的外れな評価は退けて、でき得る限り実像に即した評価を述べていこう、というのが「信長の野望」の趣旨である。
 尚、今後掲載予定の「信長の野望」では、信長は運がよかった、との一文が頻出することになるかもしれないが、これは何も、信長が運だけの人物だった、と主張したいがためではない。運を活かして成功を収めるには、それ相応の器量が要求されるわけである。凡そ、全ての成功者とは、運の良い人なのだろうと思う。

 次回以降述べていく信長の事跡についての解釈は、基本的に先行研究を参考にしたもので、私独自の新見解などまずないということになろうが、それらを総合して提示される信長像は、或いは私独自の見解と言えるかもしれない。ただ、全体的な信長像についても、やはり依拠している見解はあり、それは高柳光壽氏の論文の以下の一節である。
 この戦国以後の大名といふのは重ねて申上げますが、室町以前の守護や地頭のやうに、単に、司法・警察権だけを持つてゐて行政権を持つてゐないとか、或は司法・警察権は持つてゐないが、収税権だけを持つてゐるとかいふやうなものとは相違して、軍事の権・司法警察権、それに併せて収税の権その他一切の行政権を併せ有するところの、すなはち一地方をば殆んど完全に近き状態に於いて領有する独立政権、古い言葉でいへば諸職を一職にした独立政権であつたのであります。そしてこれが大体応仁・文明以後から起り、戦国時代に於いて閑静せられたのでありました。戦国時代とさへいへば、群雄割拠して戦乱にのみその日を送つた暗黒時代のやうに考へられ易いのでありますが、実は完全に近き強力なる地方政権成立といふ、重要にして頗る意義深き事実を将来せしめるためには、必然的に経過しなければならなかつた時代であつたのであります。
 さてこの戦国時代に完成された大名を、そのあるがまゝなる姿に於いて統一したのが信長でありまた秀吉であつたのでありまして、彼等はその統一に当つて決して守護地頭制・荘園制の古さに復さうとはしなかつたのであります。すなはち彼等は歴史の発展といふ大きな事実をそのまゝ容認したのでありまして、そこに彼等の成功があり、承久の乱や建武の中興とは全くその行き方を反対にしてゐたのであります。かくて安土桃山時代はこの大名を基礎としてこれを整理統一し組織した時代であり、頼朝の統一と秀吉の統一とがその内容を異にする所以もまたこゝにあるのであります。この戦国大名が守護や地頭に比してその政治力が如何に強大であり、また中央集権的に如何に進歩してゐたかは言を要せぬところといふべきでありませう。近世日本は実にこの大名の成立によつて、有機的な組織を持つ中央集権的な近代国家の黎明を迎へたのでありました。
 確かに、所謂「中世」と「近世」の区分という点で、信長の織田政権は他の戦国大名と一線を画されるべきかもしれないが、それを言うなら、種々の統一政策という観点から、寧ろ豊臣政権と織田政権との断絶の方が大きいとも言える。もっとも、秀吉の諸政策は信長の模倣にすぎないとの指摘もあり、確かに、秀吉の諸政策の中には既に織田政権で見られたものも多くあるが、それを言うなら、信長の諸政策も多くは他の戦国大名に先例が見られる。確かに、織田政権と他の戦国大名とに重要な性格の違いも認められるが、私は基本的には高柳氏の見解が妥当と考えており、この見解を基本としつつ、次回以降論を進めていきたい。

 

 

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