信長の野望(其の二)生い立ち

 

 織田信長は1534年に織田信秀の嫡男として誕生した。因みに、信長と共に戦国の三英傑と称される豊臣(羽柴)秀吉と徳川家康は、それぞれ1537・1542年の生まれである。信長と対立した各武将はどうかというと、今川義元は1519年、朝倉義景は1533年、浅井長政は1545年、足利義昭は1537年、武田信玄は1521年、武田勝頼は1546年、上杉謙信は1530年、毛利輝元は1533年、となる。武将とは言えないが、信長最大の敵とも言われる本願寺法主の顕如(光佐)は1543年の生まれである。信長にとっては、謙信・義景・秀吉・義昭といったあたりが同年代の人物と言えようか。 

 信長の父である織田信秀は、尾張半国下4郡の守護代である織田大和守(清洲織田家)の3奉行の1人であった。国人領主としてはやや有力といったところであろうか。因みに、信秀在世中は、尾張の守護は斯波氏で、尾張上4郡の守護代は織田伊勢守(岩倉織田家)であった。
 守護代の奉行であった信秀は、下克上の世を象徴するかのような働きでのし上がっていき、一代で殆ど守護代と同格というところまで成り上がった。信秀は、尾張国内に留まらず隣国の三河と美濃へも積極的に勢力拡張を図った。1540年に信秀は三河の安祥城を陥落させ、これに対して1542年に今川義元が織田領に攻めてきて小豆坂で両軍が激突したが、この時は織田軍が勝利を収め、三河の豪族の中には織田氏に付く者も少なからず出た。これに対して義元は、同1548年に織田領に侵攻していき、再び小豆坂で両軍が激突し、この時は今川軍が勝利を収めている。これ以降、三河における織田氏の勢力は徐々に失われていき、逆に今川氏は尾張にも徐々に勢力を浸透させていくことになる。
 信秀は、美濃にも積極的に出撃していったが、これといって成果は挙げられず、敗走することもあった。そこで、信長の後見役であった平手政秀が中心となって、美濃勢との和睦が成立し、美濃の実権を握っていた斎藤道三の娘と信長との婚姻が成立した。信秀の侵攻を撃退した道三だが、美濃の実権を握っていたとはいえ、権力掌握の過程で随分と反感を買っていたから、織田氏との妥協・協調も止むを得なかったというところか。
 この間、信長は元服と初陣を済ませている。まず1546年、平手政秀や林秀貞などを伴って古渡城にて元服の儀を行ない、翌年には、政秀を後見として今川家の勢力圏である三河の吉良大浜に出陣し、各所に放火して帰陣しており、初陣としてはまずまずの成果だったようである。敵の勢力圏における放火や苅田といった行為は、戦国時代には日常茶飯事であった。また、この間には橋本一巴を師匠に迎えて鉄砲の稽古に励んだともされており、信長が早くから鉄砲に着目していたことの証左とされ、このことから信長の天才性を論じる人もいるが、同時期に紀伊の雑賀衆の中には小学生くらいの年齢の子供まで鉄砲の稽古を行なっていたのだから、このことは信長の天才性の根拠にはならないだろう。

 信秀は1552年に亡くなった。この時点での織田家の勢力圏はというと、何と言っても、秩序が定まらず反覆常なき時代だけに、確定することは難しいが、信秀は当初は海東郡の勝幡城を本拠とし、その後に愛智郡を制圧し、春日井郡の一部と知多郡と三河西部まで勢力圏を伸ばしていたから、知多郡と三河西部は次第に今川家に侵食されつつあったとはいえ、なかなかのものである。石高でいうと、20万石弱といったところであろうか。また、勝幡城は水陸の交通の要衝にあり、港町の津島に隣接していたから、単に税収面のみならず、情報収集の面でも何かと有利だったのだろう。実際、信秀の朝廷への献金額は同時代の他大名と比較して群を抜いており、信秀の経済力の高さが窺われる。
 家督相続時にこれだけの勢力を引き継げる当主などそうもいるわけではなく、その勢力圏を完全に掌握できておらず、弟の謀反などを制圧していかねばならなかったとはいえ、信長は随分と恵まれていると言える。後の信長の覇業は、親から受け継いだ所領が大きく物を言ったというところは多分にあり、例えば毛利元就のように、引き継いだ所領が2万石程度では、一国統一に随分と時間を要していただろうし、その前に他の大勢力に潰されていた可能性もあるから、到底「天下布武」どころではなかったろう。

 

 

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