信長の野望(其の三)家督相続

 

 1552年3月に信秀が病死して信長が家督を相続すると、信秀に通じていた豪族の中には離反する者も出た。この時点では、各家の興亡は当主の力量に多分に左右されており、代替わりの時期は各家にとって盛衰の分岐点となっていた。代替わりを機に配下が鞍替えすることなど、全く珍しくはなかったのである。尚、この時点での信長の居城は那古野城である。

 信秀病死の直後、信秀に通じていた尾張国愛智郡鳴海城主の山口左馬助が早速今川家に寝返った。これを放置していては信長の威信が低下してしまうわけで、信長は早速討伐軍を繰り出したが、この時の織田軍の兵力は800、対する山口軍は1500であった。案外、信長が動員できた兵が少ないように思われるが、この後も、桶狭間の戦いに至るまで、信長の動員した兵はそれ程多くはなく、兵力で劣勢だったことも屡々だったと思われる。
 無論、古記録において凡そ兵数や戦果ほど信用できないものはなく、『信長公記』首巻は他の巻と比較して史料的価値がかなり劣るとされているから、『信長公記』首巻の兵数を鵜呑みにはできないが、どうも桶狭間の頃までは、信長は兵数が劣った状況で戦いに臨んだことも屡々である。信長の凄さは、桶狭間以降は相手を圧倒する兵数を整え、勝つべくして勝っていったことにあるとされていて、私もこの指摘は概ね妥当だと思うから、少々意外な気もする。
 兵数800といえば、2万石もあれば充分動員できる筈で、この時期の信長の勢力圏を考えると、随分と少ないように思われる。信長が敢えて少数精鋭で臨んだとも解釈できるが、後年の弟の反乱などから推測するに、「うつけ」「たわけ」との評判が立っていた信長だけに、家臣団もこの時点では信長に心服するには至っておらず、従って信秀から受け継いだ勢力圏の掌握が充分ではなく、また周囲に敵を抱えていたため、敵よりも多数の兵力を動員したくともできなかった、というのが真相であろう。信長に限らず、戦国時代の各勢力はできる限り敵よりも多くの兵を確保しようとしており、桶狭間の頃までは信長も敵を圧倒する兵力を常に整えることは困難だったのだろう。
 織田軍は三の山の赤塚にて山口軍と激突したが、やはり兵数が劣勢だったため山口軍を撃破することはできず、30騎が討ち死にし、空しく帰陣することとなったが、兵数で約半分という劣勢だっただけに、敗走しなかっただけでもましと言うべきであろうか。
 家督相続時の動揺につけ込んだのは山口左馬助だけではなく、1552年8月、清洲城主で尾張下4郡守護代織田彦五郎の家臣坂井大膳らが、松葉城の織田伊賀守と深田城の織田右衛門尉を人質に取り、反信長の姿勢を明確にした。これに対して信長は、守山城主で父方伯父の織田信光の援軍を得て、坂井大膳らを撃破して松葉城と深川城を奪い、清洲織田家に打撃を与えた。

 尾張国内の統一もまだ目途がつかず、後見役の平手政秀が切腹し、東方からは今川家が次第に三河から尾張にも勢力を浸透させつつあり、前途はまだ多難といった状況の中、1553年4月、信長は尾張国中島郡富田の正徳寺で岳父の斎藤道三と会見した。寺院は俗界の縁の切れるアジールであり、婚姻関係にあるとはいえ、以前は度々戦ってきた織田家と斎藤家の当主の会見場所としては相応しいと言えよう。
 この会見で、「たわけ」と見られていた信長の器量を道三が認めたことはあまりにも有名で、以後、短期間ではあるが道三の敗死まで織田家と斎藤家との蜜月が保たれ、この蜜月期間に信長は清洲城を奪取したり道三の援軍を得て今川方の村木城を陥落させたりしているから、正徳寺の会見は信長にとって実に効果の大きいものであった。道三が信長に肩入れしたのは、その器量を認めたということや、娘婿であったことも影響を及ぼしているのだろうが、やはり道三にとって、信長との友好関係が強く必要とされたことが最重要の理由であろう。
 道三は正徳寺の会見の前年に守護の土岐頼芸を追放し、名実共に美濃の国主となったが、国内外にかなりの反発を招来したようで、隣国近江の六角家の軍勢が美濃に乱入してきたこともあった。道三は天文1554年3月に突然隠居して家督を子の義龍に譲り、その2年後の1556年4月には、長良川の河原で義龍と戦って敗死したが、この時道三の下に集まった兵力は、義龍軍の僅か10分の1であったから、道三の治世は随分と不安定なものだったことが分かる。国内外に(潜在的)敵対勢力の多い状況では、娘婿の信長との提携は道三にとって必要不可欠だったのだろう。織田家と斎藤家との蜜月関係は、双方の利害が一致したものと言える。

 

 

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