信長の野望(其の五)尾張統一戦
謀略を用いて元来の主家(清洲織田家)ばかりか親族(伯父の信光)まで殺害したことに危機感を覚えたのか、斎藤道三敗死の頃より信勝派の信長打倒の動きが活発化し、信勝の家臣のみならず信長の家臣にも信勝に通ずる者がいたが、これは、信長の冷酷な手法が反感を買っており、また、この時点でもまだ信長の器量を認めていない者が家中にいたためであろう。また信勝派にとっては、信長と美濃斎藤家が敵対関係になったことも、反信長の旗幟を鮮明にする重要な契機となったことは間違いない。
信長の家臣である林秀貞(佐渡守)は、その弟の林美作守と共に信勝に通じており、林美作守は、1556年5月26日、信長が弟の安房守と共に那古野城に林秀貞を訪ねた際、信長を殺害しようとしたが、秀貞の反対で信長は難を逃れた。秀貞は、三代に亘って恩を受けているのだからここで信長を討つことはできない、と述べているが、その直後に敵対の立場を明確にし、荒子城などを押さえているのだから、どうも優柔不断な印象を受ける。単に、秀貞が信長と比較して甘い人物だとも言えるが、或いは、信長と同様に謀殺という手段を用いては人心を得られない、と判断したのだろうか。
同年6月、守山城主の安房守は、嘗て自分を引き入れてくれたが、その後不和となっていた角田新五により切腹に追い込まれ、守山城は、逃亡中の孫十郎が許されて城主となった。角田新五はその後信長の家臣として活躍しており、安房守殺害は信長の策謀なのであろう。信長は、優秀な弟の孫十郎を、自己の地位を脅かす危険人物だと判断したのだろうか。
恐らく、孫十郎殺害が決定的な契機となり、信勝は、信長に殺害される前に先手を打って信長を倒してしまおう、と考えたのであろう。遂に同年8月23日、信勝は柴田勝家率いる1000人と林美作守率いる700人の軍を出撃させた。これに対して信長は、翌日清洲城より700人の軍を率いて出撃し、両軍は稲生(現名古屋市西区)にて激突した。兵力の劣勢な信長軍は、佐々孫介が討たれるなど当初はやはり苦戦して崩壊しかけたが、信長の奮戦により逆襲に転じ、信長自身が林美作守を討ち取るなど、結局敵兵450人余りの頸を取り、勝利を収めた。無論、前述したように古記録における兵士数や戦果は鵜呑みにはできないのだが、兵力で劣勢な信長軍が大勝したことは間違いないだろう。
この大敗により信勝派は逼塞し、那古野城と末盛城に籠城することとなり、これに対して信長はその城下に放火するなどして圧力をかけた。不利な状況に追い込まれた信勝は母親を仲介に信長に謝罪し、周囲に大敵を抱えていた信長も粛清するだけの余裕がなかったのであろう、信勝派を許すこととした。だが、信勝は2年後の11月に再び謀反を企み、今度は信長に謀殺されてしまった。もっとも、これには疑問もあり、柴田勝家など信勝の家臣が信勝から離れ、信勝の人心が失われていることを確認してから、謀反の罪を捏造して謀殺したのではないか、とも考えられる。
信勝の反乱を制圧した時点で、信長は尾張下4郡のうち、海東・愛智と知多の一部を押さえ、更には上4郡のうち春日井郡の大半を押さえていた。知多郡の大半と春日井郡の一部は今川家に押さえられており、何といっても大敵だけに、信長も排除することは容易ではなく、1558年には春日井郡の今川方の品野城を攻めて敗北したこともあった。尾張下4郡の一つ海西郡は一向一揆が押さえていたが、一向一揆は外征能力が低く、また海西郡が尾張に占める地位はそれ程高くはない。そこで、信長の次の目標は尾張上4郡守護代の岩倉織田家となった。
岩倉織田家は、尾張上4郡のうち春日井郡を信長に押さえられ、残りの三郡も、本拠の丹羽郡にある犬山城の織田信清が信長に通じていたくらいだから、掌握は不充分で、恐らく信長の半分の国力もなかったであろう。更に、岩倉織田家では内紛が勃発し、当主の信安が長男の信賢に追放されてしまったので、この戦いは信長優位に進んでいくことになる。
抜け目のない信長は、岩倉織田家の内紛に乗じて攻め込み、更には犬山城の織田信清の援軍を得た。これに対して信賢も軍を派遣して迎撃し、1558年7月12日、両軍は浮野で激突した。戦いは信長軍有利に進み、『信長公記』に見える1250人を討ち取ったとの記事は流石に誇張がありそうだが、ともかく信長軍は大勝し、岩倉織田家は以後逼塞することとなった。
信長は翌年3月に岩倉城を制圧し、ここに尾張統一がなったとよく言われるが、前述したように、尾張には今川家の勢力が浸透し、一向一揆にも一部を押さえられており、犬山城の織田信清も必ずしも信長に服していたわけではないから、この時点ではまだ尾張の統一とはいかない。
岩倉城攻略中の1559年2月、信長は初めて上洛し、将軍足利義輝に拝謁している。これは、尾張支配の正当性の保証意図したものであろうが、当時形式的にはまだ守護の斯波義銀が尾張に在国中で、信長は先例に倣って清洲城を義銀に献上し、自らは事実上の守護代として同城の櫓に居住しており、この時点では、旧来の政治的枠組みを維持・利用することで勢力拡大を図っていた。信長のこのような姿勢は、他勢力を圧倒するに至る1575年頃まで続くと推測され、大胆な中にも慎重で巧妙な信長の政治手法が窺われるが、これは信長の最も優れた個人的資質と言ってよく、勢力拡大に成功した要因になったと言えよう。
信長は、尾張統一戦の過程で随分と謀略を用いたようで、暗殺も辞さなかった。随分と陰湿な手法のようにも思われるが、これは戦国時代には珍しいことではなく、毛利元就や宇喜多直家や龍造寺隆信なども、こうした手段を用いて勢力を拡大していったわけで、信長が特異な存在というわけではない。また、信長は度々寡兵で敵を破ったり引き分けに持ち込んだりしており、部隊指揮官としてもなかなか優秀だと言えるが、謀略も、こうした軍事力の強大さがあってこそ効果があるというものである。信長は、戦略には長けていたが戦術面ではあまり有能ではなかった、との指摘もあるが、尾張統一戦を見ていると、戦術面にも長けていたと思われる。