信長の野望(其の六)桶狭間前編

 

 信長にとって桶狭間の戦いは一大転機となったが、この連載は戦史や軍事史というわけではないので、個々の戦いの経緯を詳細に述べることはせず、戦いの背景や勝敗を分けた要因や戦いの影響に主眼を置いていくことにする。

 今川家当主となって以来、駿河と遠江を固め、三河と尾張へ勢力の拡大を図ってきた今川義元だが、1554年3月、武田信玄・北条氏康との所謂「甲相駿三国同盟」を締結して以来、その動きは本格化した。この同盟により後背をしっかりと固めることとなった武田・北条・今川の三家は、武田家は北信濃・北条家は関東・今川家は西方(三河・尾張方面)といった具合に、従来からの主要目標に主力を投入することが可能となったのである。三家の利害が一致した結果締結されたこの同盟は、今川家にとって実に有益なものであった。
 三河と尾張の制圧に本格的に着手したとはいっても、三河は諸勢力が乱立しており、これを制圧するのは義元も容易ではなかったが、桶狭間の直前には概ね三河も制圧し、更には尾張の一部をも制圧していった。これに対して信長も、弟の反乱を鎮圧したり岩倉織田家を制圧したりしつつ、一方では、今川方の尾張における拠点である鳴海城と大高城の付城として、善照寺や丸根といった砦を築いて配下を入れ、両城に圧力をかけつつ今川軍の侵入を防ごうとした。信長の築いたこれらの砦は、桶狭間の戦いにおける攻防の場所となった。

 こうした状況の中、1560年5月12日、遂に今川義元は大軍を率いて駿府を発ち、織田領へと侵攻してきた。この軍事行動の最終目標は上洛であったとの解釈が一時は浸透していたが、流石に近年ではこの見解を支持する人は少ないようである。上洛目的なら、その途中の美濃斎藤家や近江六角家などと何らかの交渉があった筈だが、そのような形跡はない。駿遠三の太守今川義元といえども、まさか上洛途中の勢力を全て軍事力で制圧していくつもりではなかったろう。
 この軍事行動の目的は、やはり尾張における勢力浸透を狙った示威行動にあり、直接の目的は、尾張における今川方の橋頭堡とも言うべき鳴海城と大高城に対する織田方の圧力の除去にあったと見るべきだろうが、かなりの大軍を動員したようなので、或いは、戦況によっては織田家、つまり尾張の制圧まで構想の中にあったかもしれない。
 この時点での両家の勢力はというと、今川家が尾張の一部・駿河・遠江・三河、織田家が尾張の過半である。太閤検地の石高を基準にすると、今川家の勢力圏は約80万石、織田家は約40万石代半ばといったところだが、この時点では、それぞれ70万石弱と30万石強といったところであろうか。
 今川軍は総勢4万5千人と称していたようだが、これでは多すぎるのではないかということで、総勢では大体2万5千人ではないかと推測されている。もっとも、目一杯動員すれば、70万石弱の勢力で4万5千人を動員することも不可能ではないが、やはりそこまでの動員はなかったのだろう。では、今川軍の兵数は総勢で2万5千人なのかというと、結局のところよく分からないが、少なくとも1万人以上を動員し、織田軍を兵数では圧倒していたことは間違いないようである。
 一方織田軍だが、信長が直接率いた兵は2000人弱とされている。これでは少ない気もするが、織田軍の兵力も、結局のところよく分からない。この他に、対今川用の善照寺や丸根といった5つの砦にそれぞれ数百程度の兵を配置していたようだから、結局信長が今川軍の侵攻に動員し得た総兵力は、4000〜7000人といったところであろうか。この兵数は、信長の勢力圏から考えると少なく、この時点ならば1万数千人は動員できた筈である。そこで問題になるのは、信長は4000〜7000人しか動員「できなかった」のか、それとも、何か理由があって敢えて4000〜7000人しか動員「しなかったのか」ということである。
 後者を採れば、信長は最初から義元の首だけを狙っていたのであり、そのために機動性に富んだ少数精鋭の軍を敢えて編成したのだ、ということになるが、どうもこの見解は疑問である。そもそも、信長が最初から義元の首を狙っていたかどうかは怪しく、この見解は結果論的解釈だと思われる。例えば、1542年に今川軍の尾張侵攻を小豆坂で撃退したように、織田軍は何度か今川軍の尾張侵攻を退けているのであり、規模が従来よりも大きかっただろうとはいえ、今回も今川軍の目的は過去の尾張侵攻とは変わらないのだから、今川軍を敗走までさせなくとも、取り敢えず打撃を与えて尾張から撤退させるというのが、信長の当初の目標だったと推測される。

 故に、信長が少数の兵しか率いなかったのは、止むを得ない事情があったためだと思われる。この時点で、嘗ての盟友だった斎藤家は仇敵となっており、周囲に織田家の有力な友好勢力は存在しなかった。従って、信長は対今川戦のみならず、斎藤家や一向一揆や北伊勢の諸勢力への備えとしても兵を割かねばならず、その分だけ今川軍の侵攻に対して動員できる兵が少なくなってしまった。また信長は、桶狭間の戦いの翌年に、今川方に通じていたとして守護の斯波義銀らを追放しており、このことから推測するに、当時今川方の調略が進んでいて、信長配下の中には、今川方に密かに通じている者や、それに留まらず軍役を懈怠する者が少なからずいたのであろう。
 そうすると、信長が籠城策を採用しなかったのも納得がいく。籠城しても援軍を派遣できるような友好勢力は存在せず、配下の中には今川方に密かに通じている者もいるのだから、籠城して寝返りでもされたら命取りになりかねない。それに、野戦で今川軍の侵攻を撃退した事例もある。何しろ、今川軍主力は遠く駿府より出撃しているのであり、このような長距離遠征では、損害を耐えて無理押しすることは難しく、信長の目標である今川軍の撃退も決して無理なことではない、と信長は過去の事例からも判断したのであろう。
 また、信長が事前に家臣に作戦を打ち明けなかったのも、信長の独裁性や天才性を示しているというよりは、今川方に作戦が筒抜けになるのを警戒したためと見るべきであろう。従って、頑迷な家臣の籠城策に対して、天才信長はこの戦いの本質、つまり義元を討ち取れば織田家の苦境脱出が達成されるのだ、ということを理解していて、少数精鋭で出撃したのだとの言説は、根本的に間違っているように思われる。

 

 

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