信長の野望(其の八)美濃攻め前編
桶狭間の戦いで今川家の侵攻を撃退した信長は、次に美濃攻略に着手した。信長は1562年1月に徳川家康(当時は松平元康)と同盟を締結し、東方の今川家の脅威が除去されるという外交成果を挙げたこともあって、苦戦しつつも遂には美濃制圧を果たした。
桶狭間の戦いの直後に、信長は何度か美濃に侵攻しているが、これは威力偵察のようなものだったのであろうか、これといって戦果は挙げられず、撤退している。また、美濃斎藤家の当主である義龍は、病弱だったためか、国外に積極的に出撃することはなかったものの、父の道三より器量が上だったようで、家臣団をよく統率していたようである。こうなると、如何に信長が名将で外交と謀略に長けているとはいえ、尾張と美濃の経済力はほぼ互角だから、なかなか美濃を制圧することは難しい。
だが、信長にとって幸運なことに、1561年5月11日、斎藤義龍が亡くなった。後を継いだのは息子の龍興だったが、この時まだ14歳で、しかも器量は父や祖父よりも随分と劣っていたようである。この機を逃さず、信長は2日後の5月13日に出撃し、その翌日の5月14日には迎撃してきた斎藤軍を森部にて撃破し、長井甲斐守や日比野下野守といった神戸将監といった斎藤家の有力家臣を討ち取り、更には墨俣という美濃侵出への橋頭堡も奪取した。代替わりの動揺をついた見事な行動と言えよう。これに対して斎藤軍も反撃に出て、同月23日、墨俣に押し寄せた。織田軍も出撃して斎藤軍を迎え撃ち、犬山城主織田信清の弟が討たれるなど一時は苦戦したが、結局斎藤軍の撃退に成功した。
ところが、この戦いで弟を失ったことに恨みを抱いたためか、犬山城主織田信清は信長から離反して斎藤家に通じてしまい、斎藤家が尾張における拠点を確保した形となった。当然、信長は犬山城の制圧に向かうことになり、先ずは1562年6月、犬山城の支城である小口城に攻めかかったが、苦戦して退却することとなり、尾張統一とはいかなかった。
ここまで主に美濃西部へ侵攻していた信長だが、翌年の1563年になると、美濃中部から東部へと侵攻の重点を変更するようになった。信長が清洲城から小牧山城へと本拠を移転したのがいつかは定かではないが、清洲城の北東にある小牧山城への移転は、美濃攻略の経路の変更と犬山城制圧とを意図した結果であることは間違いなく、その時期は1562〜1563年ということになろう。
ここで少し拠点移動と兵農分離について述べておく。信長が那古野→清洲→小牧山→岐阜といった具合に次々と拠点を移動したことを以って、既に兵農分離がなされていたことの証左とする見解が一般にも根強いが、これは的外れと言うべきであろう。そもそも、兵農分離とは何かということが難問なわけだが、取り敢えず今は深入りせず述べていく。兵農分離の特徴の一つとして、武士の在地性の喪失が挙げられると思うが、確かに、拠点移動は武士が在地性を喪失する契機となりやすいとは言えよう。だが、だからといって拠点移動が兵農分離達成の証拠となるわけではなく、拠点移動は、例えば既に武田信玄の父の信虎も行なっており、三好長慶などは、信長以上に頻繁に拠点移動を行なっているくらいである。また、兵農分離の文字通りの意味に即して見てみると、信長は美濃制圧後から長篠の戦いの頃までは、寧ろ「兵農一致」を志向していると言えるくらいである。この問題については、いずれ1回分を割いて詳しく述べるつもりである。
さて、美濃攻略の経路を変えてきた信長だが、1563年の美濃加賀見野への侵出は失敗に終わり、相変わらず一進一退の攻防といったところである。だが、翌年2月になって斎藤家に内紛が勃発し、一時的ではあるが、斎藤家の居城稲葉山が竹中半兵衛(重虎)らに奪われた。斎藤家のこの混乱に乗じて、信長は斎藤家に寝返った犬山城の織田信清を攻めた。先ず、犬山城の支城である小口城と黒田城を調略で勢力化に置くことに成功し、孤立させた上で犬山城を攻め、信清も耐えられずに8月になって甲斐へと落ち延びた。こうして、信長は遂に尾張の統一を達成した。