信長の野望(其の九)美濃攻め後編
1564年に尾張を統一した信長は、斎藤家において同年に勃発した内紛に乗じて、美濃における勢力拡大を着実に進めていった。信長は、丹羽長秀に命じて加治田城主の佐藤紀伊守を自陣営に引き込んだり、出兵して軍事的圧力をかけることにより宇留摩城の大沢基康を配下に加えたりして、斎藤家を切り崩していった。軍事行動で圧力をかけつつ調略も平行して行ない、敵を確実に切り崩していくあたり、信長の政略に長けた点が窺える。
これに対して、斎藤龍興も加治田城の付城として堂洞に砦を築いたのだが、1565年9月に信長は速攻で堂洞の砦を陥落させた。龍興も自ら軍を率いて救援に来たのだが、時遅く既に陥落した後であった。斎藤家は、1564年の内紛が示しているように、龍興が家中を纏められていなかったようで、堂洞砦の救援でも後手を踏むこととなり、美濃中部から東部における織田家の勢力浸透を防ぐことはできなかった。だがそれでも、やはり美濃一国を治めていた斎藤家の底力は侮れないもので、1566年閏8月8日には、美濃河野島で織田軍と斎藤軍が激突したが、織田軍は敗走して多数の死者を出してしまった。
この戦いは、どうも上洛を企図していた織田軍を斎藤軍が迎撃したというものだったようで、兄で室町幕府第13代将軍の足利義輝が1565年5月に殺害された後、義昭は早くから信長と接触していて(信長は遅くとも1566年6月までには義昭の推挙により尾張守に任官していたようである)、上洛、つまり自分を将軍位に就けるべく兵を起こすよう促していたのであるが、義昭がまだ美濃を完全に制圧していない信長に着目したのは、信長が嘗て義輝に拝謁してその公武一統理念に賛同していたからで、同じく義輝に拝謁したことのある上杉謙信もその理念の賛同者であった。
河野島の戦勝も斎藤家の巻き返しには結び付かず、1567年8月1日、美濃三人衆と呼ばれる美濃西部の有力者である稲葉一鉄・氏家卜全・安藤守就の三人が申し合わせて織田家に寝返ると、信長は直ちに出陣して斎藤家の本拠である稲葉山城を包囲し、翌9月には、もはや美濃を保つのは困難と判断した当主の龍興が城を脱出して伊勢長島に落ち延び、ここに信長は美濃を制圧することとなった。
信長は、本拠を小牧山城から稲葉山城に移すと共に、稲葉山城下を井口から岐阜へと改称し、以後、稲葉山城は岐阜城と呼ばれた。因みに、岐阜の呼称はこの時初めて登場したものではなく、一部の僧侶の間では、以前より稲葉山が岐阜と呼ばれており、周の文王と関連する名称として使用されていた。同年11月には信長は有名な「天下布武」の印判を使用し始め、岐阜改称と併せていよいよ天下統一の志を明確にしたと言われているが、この時点での信長の「天下布武」構想は、必ずしも幕府を否定するものではなく、義昭を奉じて上洛し、自らの軍事力で幕府と朝廷の復興を目指すものであった。
信長の美濃制圧は、桶狭間の戦いの後7年を要したということになるが、尾張と美濃とでは国力がほぼ互角だけに、義龍の死去と代替わりによる斎藤家中の内紛がなければ、もっと時間を要したか、或いは決着がつかなかった可能性もある。美濃制圧に関しても、信長はかなり恵まれたところがあったと言えるが、何度かの敗戦があったとはいえ、軍事的に打撃を与えつつ調略を駆使して美濃を制圧していった手腕は流石に見事なものである。
ここで少し、桶狭間の戦いの後の信長の戦略について考えてみたい。桶狭間での勝利と家康との同盟により東方の脅威が消滅した織田家にとって、次の侵攻方向は美濃か北伊勢となる。信長は、桶狭間の直後から美濃に攻め入っており、北伊勢に纏まった規模での軍事的圧力をかけるようになったのは1567年になってからだから、桶狭間の直後から侵攻方向は美濃と決めていたようである。
よく、早くから天下統一を意識していた信長は、上洛のためには尾張の次に美濃を取る必要があったとか、道三より美濃の譲り状を受けていたので美濃に攻め入ったとの説明がなされるが、後者の譲り状は後世の偽作であろうし、前者についても、上洛戦自体は美濃からでも伊勢からでも充分可能だから、明確な説明とはなっていない。
では、何故先に美濃を攻略したのかというと、道三の敗死後は斎藤家と仇敵関係になっており、こちらとの戦いを優先せざるを得なかったのに対して、北伊勢は北畠家や六角家などが影響力を及ぼしていたとはいえ、諸勢力が乱立していて尾張に侵攻してくる余裕がなかったからであろう。また、北伊勢に干渉できそうな有力勢力が北畠家と六角家だけなのに対して、美濃に干渉できそうな勢力は越前の朝倉家・北近江の浅井家・南近江の六角家・甲斐信濃の武田家と揃っていて、他勢力の干渉できないうちに美濃を単独で制圧しよう、との判断も働いたのだろう。
信長が美濃を攻めている間は、朝倉家は一向一揆との、浅井家は六角家や京極家や一向一揆との、武田家は上杉家との戦いがあり、美濃に有効な干渉ができるだけの余裕がなかった。また六角家は、浅井家との戦いもあったが、何よりも1563年10月に重臣の後藤賢豊を成敗したことを契機とする内紛(観音寺騒動)が勃発して以降は振るわず、斎藤道三が土岐頼芸を追放した時のように美濃に干渉する余裕はとてもなかった。
こうした点からも、信長は美濃制圧に際してかなり恵まれていたと言えるが、信長は、所与の条件に甘んじることなく、美濃の単独確保に向けて慎重な外交政策をとっており、外交に長けたところを見せていると言える。先ず、1565年には武田家の勝頼に養女を嫁がせて、東美濃の確保を図っている。当然、それ以前より武田家との交渉は行なっていたであろうから、早くから美濃単独確保に向けて慎重な手立てを講じていたのであろう。
浅井家には妹を嫁がせているが、その時期には諸説あり、早いものだと1561年、遅いものだと1567年末または1568年となる。前者の場合、美濃単独確保の布石と言えるが、後者だと、上洛戦への布石ということになろう。ただ、後者だとしても、やはり武田家の場合と同様に、織田家と浅井家との交渉自体はそれ以前より行なわれていたであろうから、浅井家との交渉には、上洛戦だけではなく美濃単独確保の意図も含まれていたであろう。
また信長は、上杉家とも早くから親密な交渉を持っており、1564年には息子を謙信の養子に迎えられることを感謝した内容の書状を出しており、また度々鷹などの贈物を献上している。信長と謙信の親密な関係は、上述したように、両者が足利義輝の構想の「同志」だったことが重要な契機となったのだろうが、それに留まらず、武田家との関係悪化を想定しての「保険」という意図もあったのではないかと推測される。
ともかく信長は、美濃制圧に際しても様々な面で細心の注意を払っているが、一方では時として電光石火の軍事行動により多大な成果を挙げており、ここでも慎重さと大胆さを併せ持つ信長の資質が成功を導いたと言えよう。