信長の野望(其の十)義昭推戴
考えてみると、信長が美濃を制圧したのは1567年のことで、家督を継いだのが1552年、横死したのが1582年だから、織田家大名としての活動期間の半分(一応、途中で信忠に家督を譲ってはいるが)を尾張と美濃の制圧で費やしたということになる。ここまで、20万石弱の所領を15年かけて100万石弱にまで増やしたわけで、その手腕は見事なものである。
ここから同じ年数をかけて、所領を600万石代後半まで増やしたのだから、所領は前半と比較して飛躍的に増大したが、伸び率自体は前半も後半もそれほどの違いはない。所領の拡大規模は、「元手」に応じたもとのなってしまうのである。信長の「後半生」における覇業の基礎も、「前半生」における美濃と尾張との制圧が大きく物を言ったのであり、更に言えば、家督相続時に受け継いだ所領の大きさこそ信長の覇業の要因だったと言えよう。如何に当主の器量が優れていたとしても、ある程度の所領がなければ、その器量を活かすことは難しいものである。
ここまで、9回に亘って信長の「前半生」について述べてきたが(もっとも、家督相続前についても1回分を割いたが)、今回からは「後半生」を取り上げるということになる。期間は変わらないが、業績の比較から言っても、やはり「後半生」の方を詳しく述べざるを得ないだろう。ただ、ここまでやや冗長な叙述になっていたところがあるので、今後はできるだけ簡潔な叙述を心掛けたい。
美濃を制圧した信長の次の目標は北伊勢であった。既に美濃攻略中から北伊勢への攻略に着手していたが、本格化したのは美濃制圧後のことであった。美濃を制圧した時点での信長の侵攻方向は、近江・飛騨・信濃・北伊勢・越前のいずれかとなるが、先ず北伊勢を侵攻対象とした理由について少し考えて見たい。北近江の浅井氏と信濃の武田家とは友好関係にあり、越前の朝倉家には、恐らく美濃制圧の時点で既に擁立を構想していたと思われる足利義昭がいる。飛騨の諸豪族は上杉派と武田派に分かれて抗争中で、織田家は上杉家とも友好関係にあり、また飛騨の国力は低いから、上杉・武田両家との関係悪化の危険を冒してまで侵攻するのは得策ではない。そうなると、次の侵攻先は北伊勢か南近江となるが、本国である尾張の安全確保という観点から、北伊勢の侵攻が優先されたのではなかろうか。
美濃を制圧した翌年、1568年2月、信長は北伊勢に軍を率いて侵攻し、制圧に成功する。ここで信長は、北伊勢の有力豪族である神戸家と長野家に一族を送り込み、その支配の安定を図った。前者には三男の信孝を、後者には弟の信包を養子として送り込んだわけだが、このような事実上の乗っ取りは戦国時代によく見られたもので、有名なところでは、例えば毛利元就が息子を吉川家と小早川家に送り込んでいる。対象豪族の組織をそのまま活用できるし、家臣団の反発も取り潰しの時程ではなかろうから、勢力拡大にはなかなか有効な手法と言える。
この時信長が動員した兵数は約4万とされており、この頃から信長は兵士を大量に動員し始める。勢力の拡大と行政組織の整備が進展したことが大量動員を支えたのだろうが、勢力を拡大して強敵と対峙するになると、それだけ多くの兵士の動員が必要となるのである。これは、織田家だけではなく「全国」的な傾向で、16世紀半ば頃より、各大名家とも大量動員体制を整え始めているのである。この問題も、兵農分離についての回でいずれ述べたい。
北伊勢も手中に収めた織田家の所領はこの時点で120〜130万石といったところで、恐らく日本最大の大名に成り上がったと推測される。こうなると、一旦は失敗したとはいえ、足利義昭が信長に再度上洛と将軍就任を期待するのは当然のことだとも言える。
義昭は、兄の将軍義輝が三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)と松永久秀とによって1565年5月に殺害された後幽閉されていたが、同年10月、隙を見て脱出し、近江六角家へと逃れた。六角家は、京都を巡って三好家と長年争っており、義昭にとっては庇護者となり得る筈だったが、1563年10月の観音寺騒動以降は振るわず、次第に三好三人衆と接近したので、義昭は1566年8月に朝倉家を頼って越前へと脱出した。だが、一向一揆に悩まされていた朝倉家には義昭を奉じて上洛するだけの国力はなく、最も頼みとしていた上杉家も一向一揆や武田家と対立していたため、上洛どころではなかった。
義昭としては、信長に頼らざるを得ない状況となっていたわけである。前述したように、義昭と信長とは義輝を通じてこれ以前より関係があったため、永禄11年7月に義昭が信長を頼って美濃に赴いたことは特に不思議ではない。恐らく信長は、これ以前より上洛準備をしており、義昭に美濃に移るよう働きかけていたのであろう。