信長の野望(其の十一)上洛戦

 

 ここで少し、畿内の状況を整理しておく。阿波から出た三好長慶は、将軍義輝と対立しつつも畿内において勢力を拡大し、死亡した1564年7月4日の時点では、畿内と阿波・讃岐を中心として約150万石と日本最大の勢力を誇っていた。
 長慶没後、三好家は養子に入っていた義継が跡を継ぎ、三好家は翌年5月の将軍義輝殺害まではまだ何とか団結していたが、その後重臣の松永久秀と三好三人衆とが対立し、更に1566年6月に三好三人衆が堺公方義維の息子である義栄を将軍に擁立すると、義継はこれに激怒し、三好三人衆と手を切り松永久秀と同盟を締結した。長慶の死により三好家は分裂してしまい、更に配下の中には三好家と手切れする者も出てきた。それぞれの勢力圏は、三好三人衆が約80万石、義継・久秀連合が約40万石といったところであろうから、三好家はあっという間に日本最大の勢力から転落してしまった。しかも、代替わりに伴う動揺で配下の士気も上がらなかった。
 三好家の場合も、代替わりによる劇的な勢力変動があったわけだが、仮に長慶が気力と健康を維持し長命を保っていたとしら、或いは三好家による統一が達成されていたかもしれなかったし、長慶一代での統一が成らず、死後に分裂があったとしても、いずれかの後継勢力は並みの戦国大名よりも遥かに大規模な勢力圏を有していたであろうから、その勢力が統一を果たしていた可能性は高い。
 織田家の場合も、信長死後に分裂したが、こちらは分け前対象となる勢力圏が大きかっただけに、後継勢力は他の戦国大名を上回る勢力を確保できたので、統一が可能となった。三好家の場合は、織田家程には分け前対象となる勢力圏が大きくはなかったので、後継勢力はいずれも他の有力戦国大名に対して優位を保てず、統一を果たすことはできなかった。信長は上洛後も何度か命を落としかねない状況に陥った。仮に1570年の朝倉攻めからの退却中に死亡していたとしたら、後継者の信忠もまだまだ若く、家中が分裂していた可能性が高いから、織田家の後継勢力が統一を果たしていたか甚だ疑わしい。そうすると、信長の歴史的評価も長慶以下となったことだろう。
 まあそれはともかく、長慶の死と三好家の分裂が永禄11年の時点まで起きていなかったとしたら、信長も容易に上洛戦は敢行できなかった筈で、しかも長慶の没年齢は43歳というのだから、信長は実に運がよいと言える。

 さて、義昭を推戴した信長は1568年8月に一旦近江に入り、義弟の浅井長政の出迎えを受けて六角家を説得したが、将軍義栄を奉じて義昭と対立している三好三人衆と通じていた六角家は応じなかった。信長は翌9月7日、浅井・徳川の援軍も含めて6万と言われる大軍を率いて南近江の六角家に攻め込み、六角家の居城である観音寺城の支城の箕作城を9月12日に陥落させた。これを受けて六角承禎・義治父子は伊賀へと逃亡し、信長はあっさりと南近江を制圧した。六角家は観音寺騒動以来家中は事実上の分裂状態で、6万もの大軍を前にしてあっさりと崩壊してしまったのは無理もないことであった。
 織田軍は殆ど戦闘もなく9月26日には入京し、義昭もまた入京を果たした。この時、織田軍の軍紀は厳正で濫妨・狼藉はなかったとされるが、やはり戦国時代には戦場に略奪は付き物で、織田軍と徳川軍の兵士は略奪に熱中したと云う。織田軍は続いて摂津・河内の三好三人衆の拠点を攻撃していき、義昭も行動を共にした。松永久秀や三好義継といった畿内の反三好三人衆も次々と義昭支持を表明し、畿内は概ね治まった。信長の上洛とその後の畿内平定については、義昭の存在が大きく物を言ったところがあり、久秀が義昭を殺害せずに幽閉に留めていたことは、信長にとって幸いだった。
 将軍義栄が上洛戦途中の9月に急死したことも、信長にとっては幸運だった。 これにより三好三人衆の側の大義名分が失われて、信長の下に畿内の諸勢力が集結しやすくなっただけではなく、義昭の将軍任官の障害も除去された形となり、同年10月18日に義昭は征夷大将軍に就任した。仮に義栄の急死がなかったとしても、信長の上洛は達成されていただろうが、その後の畿内の平定と義昭の将軍任官で手間取っていた可能性があるから、信長にとっては都合の悪い事態となっていたかもしれない。
 また、義栄の急死がなければ、信長としても義昭をそうも粗略に扱うことはできなかった筈で、室町幕府体制の否定も史実よりは時間を要し困難なものとなっただろうし、信長も室町幕府体制の中に埋没してしまう危険性があった。信長はここでも運がよかったということになるが、義栄の急死が信長による暗殺だとしたら、信長は自力で室町幕府体制否定の重要な契機を作った、との評価に変更となる。

 畿内を概ね平定した信長は、10月14日に京都に帰還した。同月23日、義昭は信長のために能楽を主催し、その席で信長に副将軍か管領に就任するよう要請したが、これを断った。普通、これは室町幕府の体制に取り込まれることを信長が嫌ったためと解釈されていて、確かにそうした意図もあるのだろうが、それ以上に、守護代の配下という家柄の出自である信長が管領や副将軍に就任した場合の諸勢力の反発を警戒したためだろう。
 同月26日、信長は京都を発ち、28日に岐阜へと帰還した。畿内平定については反三好三人衆の諸勢力の功績が大きかったため、織田家の新たな所領は南近江だけとなったが、それでも大した成果と言え、織田家の勢力圏は約160万石となった。

 

 

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