信長の野望(其の十二)伊勢平定

 

 1568年12月28日、信長により京都から駆逐された三好三人衆は、阿波からの三好康長の援軍を得て反撃に出て、三好義継の治める和泉の家原城を陥落させ、京都へと進軍した。信長により畿内での勢力圏を大幅に奪われたとはいえ、この時点での三好三人衆の勢力圏はまだ45万石程あり、2万近い兵を動員することも可能だったから、決して侮ることはできなかった。翌年1月5日、三好三人衆は将軍義昭の御座所である六条本圀寺を包囲したが、義昭軍は寡兵ながらよく耐え、翌日には三好義継など義昭方の軍勢が来援して三好三人衆の軍は散々に打ち破られた。
 1月6日に三好三人衆侵攻の報を受けた信長は、大雪の中を急行し、2日後には京都に入り、功のあった者を賞した。今回は、信長は割と長期間京都に滞在し、岐阜に帰還したのは5月11日であった。この間、本圀寺襲撃の反省を踏まえて、二条に堅固な将軍御座所を建設した。大工奉行に任命されたのは、村井貞勝と島田所之助であった。また、疲弊した禁裏の修理にも取り掛かり、朝山日乗と村井貞勝が奉行に任命された。
 この京都滞在中最も注目すべきことは、信長が幕府殿中掟を定めたことである。これは1月14日に制定され、その2日後に追加が制定されている。この殿中掟には、信長の署名と判があり、義昭がこれに同意したことを意味する袖判がすえられている。全体として、将軍の恣意的行動を制約し、殊に裁判に関与しづらいように定められている。信長は、徐々に将軍権力を形骸化していこうと企図していたのだろうが、前述したように、これが可能となったのも、前将軍の義栄が急死して義昭への依存度が低くなっていたからである。

 岐阜に帰還した信長は、北畠家が支配している南伊勢の攻略に着手する。北畠家の本拠は大河内城であった。信長が岐阜に帰還した5月、北畠家当主具教の弟である木造城主の木造具政が織田方に寝返り、信長が即座に北伊勢に配置していた滝川一益らを援軍として派遣したため、木造具政は北畠軍に包囲されながらも耐えていた。
 8月20日、信長は8万とも伝わる軍勢を率いて岐阜を出陣し、その日のうちに桑名まで進出して翌日には鷹狩をする余裕を見せた。26日には木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)が大河内城前面の阿坂城を攻め落し、28日には遂に大河内城を包囲するに至った。この時、城下町を焼き払っているが、これは攻城戦ではよくあることである。翌9月8日、信長は丹羽長秀・池田恒興・稲葉一鉄の3人に命じて西搦手口に夜襲をかけさせたが、雨が降って鉄炮が使えなかったこともあり、屈強の武士20余人が討ち取られるという敗北を喫した。以後、信長は強攻せず、包囲を強化して兵糧攻めに専念した。
 北畠具教は不利を悟って信長からの講和に応じ、大河内城を譲り渡すと共に、信長の次男信雄を養子に迎え入れることとなり、10月4日に大河内城は開城となって、信雄が城主となった。これで、信長は尾張・美濃・伊勢・南近江を領有することとなり、織田領の推定石高は約180万石となった。

 信長は大河内城を開城させた2日後、伊勢神宮に参拝し、その後10月11日には上洛して義昭に伊勢平定を報告した。だが、今回の在京期間は短く、同月17日には岐阜に帰還している。『多聞院日記』によると義昭との意見の相違があったようで、その衝突が奈良にまで伝わっているのだから、あからさまな衝突だったのだろう。
 年が明けて1570年1月23日、信長は五ヶ条の事書を義昭に呈して承認させた。この文書は、信長の朱印状として朝山日乗と明智光秀とに宛てたものだが、袖に義昭の黒印が捺されていた。第一条では信長に無断で書状を送れないようにした。第二条では義昭の従来の決定を破棄にした。第三条では幕府の恩賞権への干渉を宣言した。第四条では天下を天下を統治する権限は信長に委任されたもので、将軍の意思に関わらず成敗を行なうと宣言した。第五条では皇室への財政援助を義務付けた。特に重要なのは第四条だが、この五ヶ条の事書により、信長は義昭の持っていた権限を握り「天下之儀」を掌中に収めることに成功した。
 信長としては、諸国に書状を送って連絡を取っている義昭の行動をこれ以上見過ごすわけにはいかず、将軍権力の掣肘に乗り出したのだろう。この処置が妥当だったのかというと、何とも難しいところである。ただ、義昭は信長の傀儡に甘んじるつもりは全くなく、また前年の衝突で信長と義昭との対立は両者にとって自明のものとなったから、先手を打って義昭の行動を制約する大義名分を得たことは、妥当な処置だったと言うべきであろう。
 もっとも、これを以って幕府体制の否定とは言えず、信長は以後も幕府体制を利用しており、義昭もあからさまに信長に敵対したわけではない。両者は、元亀4(1573)年までは、表面的には友好関係を保ち続けていた。信長は、五ヶ条の事書を義昭に呈したのと同日、東は三河と遠江の徳川家康から西は備前の国衆まで書状を出し、2月中旬までに上洛するよう命じた。内裏を修理し、将軍に仕えて天下を安寧にするために上洛しろ、という内容の書状で、幕府と朝廷の権威を利用して「天下布武」を図ろうとする信長の姿勢が窺われる。このことからも、この段階では、幕府体制を否定してしまえる程の国力と論理を、信長は充分には用意できていなかったと見るべきであろう。

 

 

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