信長の野望(其の十四)姉川

 

 1570年4月30日に越前から京都へと退却した信長は、本拠の岐阜城への帰還を図った。南近江では、織田家撤退の報を受けた六角家残党や浅井家に通じた者が各地で蜂起し、信長の行く手を妨げていたが、稲葉一鉄らの働きでこれらを鎮圧していった。浅井軍の南下を防ぎ、六角家残党の蜂起を鎮圧して岐阜と京都の連絡線を維持するため、信長は琵琶湖西岸に位置する宇佐山城に森可成を配置し、その後も、永原城に佐久間信盛・長光寺城に柴田勝家・安土城に中川重政といった具合に、重臣を南近江各地に配置していった。
 信長は同年5月19日、行く手を阻む郷一揆を蒲生賢秀(氏郷の父)らの働きで退け、千草峠を越えようとしたところ、六角承禎に依頼された杉谷善住坊に距離12〜13間(21.8〜23.6m)から鉄砲で狙われたが、運よく弾は信長を掠めただけですんだ。当時の鉄砲はそれ程信頼の置けるものではなかったとはいえ、距離12〜13間といえば、充分有効射程距離内で、信長はここで命を落としていた可能性も充分ある。ここで信長が討ち取られていたら、兵農分離の先駆者などという評価をされることはまずなかっただろうが、これから更に12年間生きて統一の基盤を作り、配下の秀吉が統一を達成したので、既にこの時点で信長は兵農分離を達成していて、それが信長の成功要因となった、などといった的外れな見解が根強く浸透することとなった。

 信長は5月21日に岐阜に帰還した。信長にとってこの時点で最も優先されるべきは京都の維持であり、そのためには京都と岐阜との連絡線を確保する必要があり、それを可能とするには、浅井家と朝倉家の南下を防ぎ、六角家残党と諸一揆の蜂起を鎮圧しなければならない。
 6月4日、六角承禎は南近江にて諸一揆と連携して蜂起し、野洲川付近の落窪で柴田勝家と佐久間信盛の率いる織田軍と戦ったが、烏合の衆だったためか敗れてしまい、これによって南近江は一応鎮まった。重臣を南近江に配置して六角家残党の蜂起を鎮圧しようとした信長の構想は妥当なものだったということになる。
 続いて信長は、浅井家と朝倉家の南下を防ぐべく、6月19日に岐阜を発ち、浅井領へと侵攻した。これより前、浅井長政と越前より派遣された朝倉景鏡は軍を率いて長比と刈安に砦を構えて織田軍の侵攻をふせごうとしたが、信長は調略により浅井家に属す鎌羽城主の堀秀村を自軍に引き込み、これを見て長比と刈安の守備兵は退散し、信長は労せずして両砦を奪取した。こうしたことに、信長の優れた手腕がよく示されていると言えよう。

 信長は6月21日に浅井家の本拠である小谷城へと迫り、例によって城下の町を焼き払ったが、その堅固な様子を見てすぐに攻め落すのは無理と判断したのか、一旦小谷城南にある虎後前山へと退き、各地に放火して回った。翌日、信長は目標を小谷城南東の横山城に切り替え、姉川を渡って虎後前山から退却した。この時、浅井軍は追撃したものの、佐々成政らの反撃に遭って大した戦果は挙げられなかった。織田軍のこの退却は、浅井軍を誘い出す目的もあったのかもしれず、その後も、横山城の包囲は木下藤吉郎らに任せ、本陣は姉川南の龍ヶ鼻に置き、浅井軍を誘っていた。
 この間、織田軍には三河から徳川家康が、浅井軍には越前から朝倉景健が援軍を率いて来て、浅井・朝倉連合軍は小谷城南東で龍ヶ鼻からは川2つを挟んで北方にある大依山に陣取った。6月27日、浅井・朝倉連合軍に動きがあり、信長はこれを退却と判断したが、これは誤認で、浅井・朝倉連合軍は大依山を降りて織田・徳川連合軍を攻撃してきた。当初退却と判断したためか、信長は横山城包囲の軍を呼び戻すのが少し遅かったようで、そのため緒戦では苦戦することとなった。
 両軍の兵力は諸説あり、『信長公記』では浅井軍5000・朝倉軍8000となっているが、浅井軍8000・朝倉軍10000に対して織田軍23000・徳川軍6000という説もあり、はっきりとしない。ただ、織田・徳川連合軍が兵力ではかなり優位に立っていたことは間違いなかろうが、戦場はさほど広くはなく、両軍とも手持ちの兵力を存分に活かせたか、疑問もある。
 6月28日、姉川を挟んで、織田軍は浅井軍と、徳川軍は朝倉軍と向き合う形で先端が開かれた。上述した理由で、数に勝る織田・徳川連合軍は当初は苦戦したが、やがて数の優位が物を言って浅井・朝倉連合軍を敗走に追い込んだ。死者の数は、織田・徳川連合軍が800人、浅井・朝倉連合軍が1700人とされているが、よくは分からない。ただ、上述した戦場の狭さと、織田・浅井・朝倉家のその後の活発な軍事行動を考えると、双方とも大きな損害は出さなかったように思われる。
 織田軍はこの後に横山城を攻め落し、木下藤吉郎が城番に任命された。続いて織田軍は浅井家臣の磯野員昌の籠る佐和山城を攻めたが、これを陥落させることはできず、百々に砦を築いて丹羽長秀を置き、佐和山城を監視させた。これにより、横山・百々・安土・長光寺・永原・宇佐山に重臣を配置して浅井軍と六角家残党を監視する体制が一応は完成し、岐阜〜京都の連絡線も確保されたが、この時点ではまだ浅井・朝倉軍の行動を充分阻止できる迄には至らなかった。

 姉川の戦いは織田・徳川連合軍の完勝と言われているが、実際には浅井・朝倉連合軍に致命的な損害を与えたわけではなかったと思われる。ただ、この戦いにより一先ず岐阜〜京都の連絡線寸断を阻止できたことは、信長にとって大きな成果だったと言えよう。
 信長は7月6日に上洛して将軍足利義昭に拝謁して姉川の戦いを報告し、その翌々日に岐阜に帰還した。信長も、義昭が浅井と朝倉の背後にいることは分かっていただろうが、表立って詰問することはなく、また義昭も信長との面会は拒否しなかった。この時点では、まだ両者ともお互いに相手の利用価値を充分認めていたのだろう。

 

 

歴史雑文最新一覧へ   先頭へ