信長の野望(其の十五)野田・福島

 

 1570年7月8日、姉川の戦いに勝利した信長は岐阜に帰還した。南近江を確保し、京都と岐阜の連絡線を維持できたとはいえ、信長にとっての苦境はこれからが本番であった。この年の越前攻めから1573年の浅井・朝倉家滅亡の頃までの信長の苦境は、よく「信長包囲網」と言われて、義昭が影で糸を引いていたとされている。確かに、義昭は頼りになりそうな各勢力に書状を送っていたが、当初からよく練られた「信長包囲網」を計画していたわけではなく、これは結果として成立したかのように見えるもので、また、各勢力もそれぞれの都合で動いており、義昭の期待通りに行動したわけではなかった。従って、この「信長包囲網」は必ずしも有効に機能せず、そこに信長の付け込む隙があったわけだが、そうはいっても、敵対勢力を確実に弱体化させていき、苦境を脱した信長の手腕は大したものである。
 信長に二度に亘って打ち破られた三好三人衆だが、その勢力圏はまだ40万石近くあり、7月21日、再度畿内での勢力回復を狙って摂津に出陣してきた。今回は、管領細川家の嫡流である六郎が盟主とされ、信長により美濃を追われた斎藤龍興など反信長派も加わっていた。三好三人衆を中心とする反信長連合軍は、摂津の野田と福島に砦を築き、京都のみならず畿内要所への出撃の姿勢を見せた。野田と福島は中洲に攻め辛い地形に築かれていた。
 この反信長連合軍の決起について、義昭が関与していたかとなると、どうもよく分からない。ただ、三好三人衆が推戴していた前将軍の義栄が既に死亡していて、共に信長が邪魔な存在なわけだから、両者がこの時点で連携していたとしても不思議ではない。もっとも、義昭もこの時点では信長との協調は表面的には崩しておらず、河内の畠山昭高に信長に協力するよう命じたり、信長軍に同行もしている。

 当然、信長はこの動きを看過することはできず、8月20日、岐阜を発った。途中、横山・長光寺と琵琶湖東岸の属城に逗留し、京都では死所となった本能寺に宿泊した。26日、織田軍は野田・福島の前面に布陣した。ここで信長は、反信長連合軍が寄せ集めであることから、調略を専らとし、三好為三と香西某を寝返らせることに成功した。更に、9月1日には松永久秀を介して三木・麦井という者達が、4日には尼崎の別所家が寝返った。野田・福島の反信長連合軍の兵数は8000と伝わっており、織田軍の兵数は不明だが、国力差を考慮すると、反信長連合軍を圧倒する兵力だったと推測され、故に寝返りが続出したのだろう。
 更に、信長は将軍義昭を担ぎ出して中島城に入れ、如何に両者が深刻な対立関係にあるとはいえ、表面上は協調関係を保っているのだから、こうなると反信長連合軍は更に動揺することとなり、崩壊しかねないところであった。だが、本願寺が反信長の立場で決起し、更には各地に檄を飛ばして一向一揆の蜂起を促したことにより、情勢は一変した。本願寺・一向一揆と信長の関係については、いずれ1回割いて述べる予定である。本願寺は浅井・朝倉家とも通じており、代々一向一揆と対立してきた両家は本願寺との提携により行動の自由を得ることとなった。こうして、浅井・朝倉連合軍は京都を目指しての南下が可能となり、信長は一気に窮地に追い込まれることとなったが、先ずは情勢の変遷を少し詳しく見ていきたい。

 信長は9月9日に天満森に本陣を進め、野田・福島近辺の堀を埋めている。12日には、義昭を伴って野田・福島の北にある海老江に本陣を構え、総攻撃に移った。この時、義昭の呼び掛けに応じて、根来・雑賀・湯川といった紀伊国奥郡衆2万が、3000丁という大量の鉄炮を備えて織田軍の来援に赴き、大銃撃戦となった。
 ところが翌13日になると、遂に本願寺の兵が決起して織田軍に襲い掛かり、14日には春日井堤で佐々成政・前田利家・野村定常らが本願寺軍の下間頼龍に敗れ、野村定常は討ち死にしてしまった。16日には遂に浅井・朝倉連合軍が坂本へと迫った。一気に窮地に追い込まれた信長は、今度は自分から和睦を申し出たようだが、如何に信長が外交に長けているとはいえ、流石にこれはあまりにも虫のよい提案で、あっさりと蹴られてしまった。
 浅井・朝倉連合軍の坂本への進撃に対して、宇佐山城の森可成は僅か1000程の兵で城を出て迎撃し、一度は撃退したが、やはり兵力差は如何ともし難く、19日には信長の弟の信治などと共に討ち死にしてしまった。勢いに乗る浅井・朝倉連合軍は宇佐山城に攻めかかったが、武藤五郎右衛門と肥田彦左衛門がよく守り陥落させることはできなかった。浅井・朝倉連合軍は20日には大津を、21日には醍醐と山科に放火し、京都に迫った。
 22日にこの報を受けた信長は、流石に京都を無視して野田・福島の攻略を続けるわけにはいかないと判断し、退却することとした。翌23日、信長は和田惟政と柴田勝家に殿軍を命じて退却し、その日のうちに義昭を伴って京都に入った。京都は何とか維持できたものの、苦境が打開されたわけではなく、信長にとって厳しい日々が続くことになる。

 

 

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