信長の野望(其の十六)比叡山対峙

 

 京都に帰還した信長は、翌9月24日、浅井・朝倉連合軍を迎撃すべく出陣した。下坂本にまで進出していた浅井・朝倉連合軍は、これに対して比叡山に上り、持久戦の構えを見せた。両軍の兵力は不明だが、浅井家と朝倉家は合計60〜70万石といったところで、これに対して織田家は200万石近くあるから、周囲に敵を抱えているとはいえ、恐らく織田軍の方が兵力ではかなり優勢で、そのため浅井・朝倉連合軍は有利な地形に陣取ったのだろう。
 信長は、比叡山延暦寺の僧を10人ばかり招いて、味方に付けば領国内の延暦寺領を返還するが、それが無理なら中立を守るよう申し出た。更に信長は、稲葉一鉄に命じて、もしこれらの申し出を拒絶すれば寺を焼き払うと延暦寺に伝えたが、延暦寺側は信長の申し出を退け、浅井・朝倉連合軍に加担し続けた。
 そこで信長は、持久戦の態勢を整えて比叡山の浅井・朝倉連合軍を包囲し、宇佐山城に本陣を構えたが、このまま京都近辺にて浅井・朝倉連合軍に居座られては困るので、10月20日には朝倉軍に決戦を申し入れたが、流石に朝倉義景はこの挑発には乗ってこず、徒に日々を過ごすこととなった。

 織田軍主力が比叡山にて浅井・朝倉連合軍と対峙しているこの間こそ、反織田勢力にとっては信長を追い落とす絶好の機会であったが、そこは寄せ集めの悲しさで、なかなか上手くはいかない。この時点において、既に反織田勢力の一部と連携していたと見られる将軍義昭は、表立って反織田の姿勢を明確にしていたわけではなかった。ここで義昭が信長追討を堂々と表明していれば、畿内の織田派の少なからぬ者が反織田派に鞍替えした可能性は高かっただろうが、義昭としてもまだ機は熟していないとの判断があったのだろう。この義昭の判断は、結果的には失敗だったと言えるかもしれないが、義昭としても武田や毛利や上杉といった大勢力のどれかが反織田派に加わる必要性を認識していただろうから、当時の判断としては止むを得ないところもあったのではなかろうか。
 そういうわけで、三好三人衆が野田・福島の砦を強化し、摂津や河内に軍を進めても、三好義継など多くの織田派は鞍替えすることなく、城の守りを固めたため、京都が反織田派の手に渡ることはなかった。また、織田軍の苦戦につけ込んで、南近江では六角承禎が挙兵したが数が集まらず不振で、近江の諸一揆も、木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)と丹羽長秀が平定して大事には至らなかった。
 不振の六角承禎は11月22日に信長と和睦しているが、この前日には、尾張と伊勢の国境近くの小木江城を守っていた信長の弟の信興が、近江の一揆と呼応して決起した伊勢長島の一向一揆に攻められて自害しており、六角承禎はもっと踏ん張れなかったものか、ともどかしさを覚えるところである。だが、そこが烏合の衆の悲しさで、反織田勢力は、各自の都合を優先して行動していて必ずしも足並みが揃わず、信長が結局はこの「信長包囲網」を打ち破れた一因も、その点にあると言える。

 比叡山戦線では、琵琶湖の水運を握る堅田衆の有力者である猪飼野甚助・馬場孫次郎・居初又次郎の3人が、11月25日に信長に通じてきたのたで、信長は早速、坂井右近・安藤右衛門・桑原平兵衛に兵1000人を率いさせて堅田に向かわせたが、朝倉軍は一部を割いて堅田に向かわせ、坂井右近は討ち死にしてしまった。
 浅井・朝倉連合軍と対峙が続き、本国尾張では弟が一向一揆に攻められて自害するなど、信長は苦境に陥ってしまったかの如くだが、苦しいのは浅井・朝倉連合軍も同様で、合計しても織田家の1/3程の国力しかないのだから、長期の対陣は織田軍と同じく苦しいことになる。特に朝倉軍が苦しく、冬になって豪雪となり、本国越前との交通が途絶えがちとなってしまった。
 そこで、朝倉義景が義昭に泣き付き、信長は当初は講和には反対していたが、義昭が三井寺まで下ってきたので、織田軍と浅井・朝倉連合軍は12月13日に講和した、と『信長公記』にはある。だが、これは信長家臣だった太田牛一が信長に配慮した記述である可能性が高く、恐らくは信長が義昭を動かして和睦を持ち掛けたのだろう。当初は条件が折り合わなかったようだが、信長は関白二条晴良も動かして、講和に持ち込んだ。ここで浅井・朝倉連合軍が踏ん張っていれば、との想定もあり得るかもしれないが、織田家よりも国力の劣る両家も、限界に近付いていたわけだから、この講和は止むを得ないところもある。本願寺と織田家との和議についてはよく分からず、講和が成立したという証拠はないが、年末に至って事実上の休戦期間に突入したようである。

 こうして、幕府と朝廷を動かし、信長は何とか窮地を脱した。戦国時代といえども、やはり幕府と朝廷の権威は侮ることはできず、信長が京都の確保に腐心したのも当然と言うべきであろう。

 

 

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