信長の野望(18)信玄西上
信長に面目を潰された形となった義昭だが、簡単には屈しない。義昭には武田信玄という切り札があった。義昭は予てより信玄と通じており、5月13日には、軍事行動を起こして天下静謐のために尽力するよう信玄に命じている。その信玄が遂に大軍を率いて出陣したのは、10月3日のことであった。この時点で武田領は約90万石といったところで、これだけの大勢力が反織田陣営に加わって大軍を動員するというのだから、義昭が信長に屈しなかったのは無理もない。信玄は西上に際して細心の注意を払っており、一向一揆と通じて宿敵の上杉謙信を牽制している。信玄と一向一揆・本願寺とは、義昭を通じての結び付きもあっただろうが、信玄の正室の妹が当時の本願寺法主である顕如に嫁いでいたことから、それ以前より親交はあったのだろう。
武田軍本隊は遠江北部、山県昌景の軍は東三河、秋山信友の軍は東美濃へと侵攻し、秋山軍は11月14日に織田方の美濃岩村城を落とした。本隊の一部は徳川方の二俣城攻略に向かったが、陥落には意外に時間を要している。この後、信玄は浜松城へと向かった。信長は佐久間信盛らに命じて援軍を派遣したが、その数は3000と少なかったようで、織田軍も余裕がなかったのだろうが、これまで信長は徳川家に度々兵の動員を要請しており、家臣に近い同盟者だから、義理立てしたというところだろうか。
12月22日、武田軍は三方ヶ原で徳川・織田連合軍を撃破したが、信玄は浜松城の攻略には向かわず三河へと進み、翌年には徳川方の三河野田城の攻略に取り掛かった。二俣城攻略に手間取ったことから、本拠の浜松城の攻略が容易でないと判断したのだろうが、三河で軍事的圧力をかけることによって徳川方の豪族を寝返らせ、浜松城の徳川本隊を孤立状態に追い込もうとの意図もあったのだろう。
この武田軍の一連の行動の解釈は、大別して上洛説と遠江・三河制圧説=徳川家制圧説とがある。信玄は早くから義昭など畿内とその近国の反織田勢力と通じており、上洛説にも説得力はあるが、この時点での織田家の所領は約230万石といったところで、武田家の倍以上である。武田家には他の反織田勢力の間接的支援が期待できるとはいえ、織田家も畿内及びその近国の親織田勢力と徳川家とを合わせれば350万石くらいにはなるだろうから、いきなりこれを打ち破って上洛を果たすというのは難しい。
恐らく、この軍事行動は徳川家の制圧を目標としたもので、それが概ね完了したら、次は反織田の諸勢力と連携を更に続けて、織田領に本格的に侵攻しようとしたのだろう。上洛を意図しての行動なら、徳川軍への備えを残して更に西侵するところだが、流石にそれは危険性が高く、信玄はそのような無理をする大名ではなかった。
年が明けて1573年2月10日、武田軍は徳川方の三河野田城を落としたが、ここでも意外と時間を要しており、27日には長篠城に入っている。三方ヶ原での武田軍の大勝とその後の三河への進出を受けて、信長は義昭を通じて和睦を試みたが、流石に虫がよいと判断されて一蹴されてしまった。前年に義昭に対して屈辱的な異見書を突きつけたわけだから仕方のないところだが、野田・福島の時といい、信長の変り身の早さには驚かされる。悪く言えば節操がないが、よく言えば機を見るに敏で柔軟である。
武田軍の動向を聞いて勝利を確信したのか義昭は強気に出て、今堅田の砦に兵を入れ、石山には砦を築き始めた。信長の対応は素早く、2月26日にはまだ普請の終わっていない石山を落として破却とし、29日には明智光秀が今堅田を落とした。これに対して義昭は、3月10日に信長の質子を返却して信長と断交し、公然と反織田の姿勢を示したが、この頃より、頼みの綱の武田軍の動きが鈍ってきて、遂には帰還することとなった。当時既に信玄は病に伏しており、軍事行動を指揮できる状態ではなかったのである。
だが、信玄が病に臥したことは武田家の一部の者しか知らず、義昭は相変わらず強気で、信長も武田軍の動向を警戒して行動は慎重だった。前述したように、信長が義昭方の砦の攻略を家臣に命じたのは2月下旬、自身が本隊を率いて岐阜を発ったのは3月25日のことで、武田軍の西侵を警戒していたのだろう。信長は29日に京都近郊の逢坂まで進出し、ここで幕府奉公衆の細川藤孝と摂津の有力豪族である荒木村重の出迎えを受けた。勝利を確信して決起した義昭だったが、直臣からも見放されていたのである。
織田軍は京都へと進んで4月4日には上京に放火し、寺院など各所で略奪したが、信長は予てより上京の住民に反感を抱いており、上京からの献納も拒否したと云う。上京の住民は略奪を免れようとして信長に献納しようとしたのだろうが、恐らく上京は義昭寄りだったので、義昭への威圧という目的で放火し略奪したのだろう。大名に献納して略奪・放火などを免れるという習慣は当時よく見られたもので、中には敵対する双方の大名に献納して「安堵を買う」村や町もあった。ここで朝廷が義昭と信長との和議を持ち掛け、信長も武田軍の動向を警戒していたためか、これに応じた。
信玄は帰還途中の4月12日に信濃にて死亡した。信玄が病に倒れずに軍事活動を続行していれば、信長は危うかったとの見解が根強くあるが、果たしてどうだろうか。結論を先に言えば、信玄のこの壮大な西侵作戦は遅すぎたと思う。
信玄が大軍を率いて出陣したのは1572年10月3日のことだが、この時点で既に近江の諸一揆は鎮圧されつつあり、浅井・朝倉家も、強大な織田家との2年以上の対峙により国力は随分と消耗していた。浅井家は放火などにより織田軍に領内を荒らされまくっており、朝倉軍も越前から大軍を率いてきているのだから出費は相当なものであり、既述したように負担に耐えかねて織田家に寝返る重臣が続出する有様で、両家とも不振であった。浅井・朝倉連合軍は武田軍出陣後の11月3日には一度出撃したが、木下藤吉郎にあっさりと撃退されている。
朝倉軍は遂に12月3日には本国越前へと撤退し、信玄はこれを非難して度々朝倉義景に出陣を要請しているが、義景は信玄死亡時までに軍を動かすことはなかった。義景にすれば、一旦本国に戻って体制を立て直さなければ朝倉家は崩壊しかねず、これ以上近江に滞在して織田軍を牽制することにはもはや耐えられない、といったところであろう。義景のこの行動について、信玄の戦略を解さないものとして義景を暗愚と指弾する見解が根強いが、義景に言わせれば、信玄の出陣が遅かったのであり、もはや限界だということになろう。この撤退について、義景を指弾するのは酷ではなかろうか。
仮に1570年秋の時点で信玄が西侵を開始していたなら、浅井・朝倉両家もまだ国力に余裕があったから、或いは織田家を瓦解に追い込むこともできたかもしれない。だが、1571年10月3日に北条氏康が死亡して武田・北条同盟が復活するまで武田家は四面楚歌状態で、大規模な西侵作戦を行なうどころではなかった。そして漸く出陣する頃には、既に浅井・朝倉家は消耗してしまっており、武田軍への有効な間接的支援は困難であった。
信玄は晩年になって、棟別役や普請役などの免除を通じて大規模な軍事動員体制を確立しつつあった。こうした傾向は「全国」的なものだが、経済的な負担が大きいことは言うまでもない。故に、織田家の半分もない国力の武田家が、反織田勢力の有効な間接的支援なしに、織田家を敵に回して大規模な動員に耐えられ続けたかは疑問で、結局のところ、既に1572年10月の時点で、武田家が織田家を制圧できる見込みはかなり低かったと言えよう。
後世の評価という視点からは、信玄と信長の直接的対決がなかったのは信玄にとって幸運だったとも言え、仮に信玄が長命を保って信長と対峙していたとしたら、現在よりも低く評価されていた可能性もあろう。