信長の野望(19)義昭追放

 

 義昭と和睦した信長は4月7日に京都を発ち、途中で六角義治の立て籠もる鯰江城を佐久間信盛らに攻めさせ、自身は11日に岐阜に帰還した。信長は5月22日に佐和山に移り、長さ約54mという大船を建造させ、7月3日に完成したが、これは、義昭との対立を想定してのことであった。
 浅井・朝倉家はジリ貧、武田家は信玄が死亡して軍事活動が停滞中と、反織田勢力がすっかり衰退していたにも関わらず、義昭は7月5日に懲りずに槇島城にて信長打倒の挙兵を行なった。情勢は不利だが、このまま行けばジリ貧なので、乾坤一擲の勝負に出たのだろうが、こういう場合に挽回することは稀で、大体は状況が一気に悪化するものであり、義昭の場合も例外ではなかった。
 6日、信長は建造したばかりの大船を使って一挙に京都近郊の坂本まで進出し、翌日には上洛して義昭方の二条城を攻め、12日に奪取した。信長は16日には義昭の立て籠もる槇島城に迫り、18日には陥落させた。信長は義昭を殺すことはなく、三好義継の居城である若江城へと追放するに留めた。将軍を殺害した場合の諸勢力の反感を考慮したのだろう。信長は26日に京都を発ち、8月4日に岐阜に帰還したが、この間に三好三人衆の一人である石成友通が細川藤孝に討たれている。
 普通、これで室町幕府は滅亡したとされるが、義昭は将軍職を剥奪されたわけではなく、信長の横死に至るまで「幕府」の権威と権限は侮れないものであった。また、信長はこの時点で幕府体制を否定してしまったわけではなく、義昭の息子を「大樹(将軍)若君」として庇護・推戴し、ことあるごとに同道しており、これは1575年まで続いている。有力者が将軍を都から追うというのは戦国時代にはよくあったことで、義昭の追放も、この時点ではそれらの前例に近いものとして評価するのが妥当だろう。

 8月8日、浅井家重臣で山本山城主の阿閉貞征が織田家に寝返り、信長はこの機を逃さず即座に出陣した。10日には朝倉義景が浅井家への援軍として2万もの兵を率いて来たが、共闘してきた隣国の一大事とあって、流石に義景も無理をして出陣してきたのだろう。小谷城北西の大嶽には朝倉軍の守備兵500人ほどがいて、前年と同じく朝倉軍はこの要害の地に布陣すると判断した信長は、先手を打って12日に大嶽を占拠し、朝倉方の兵士をわざと逃がしてこのことを知らせた。朝倉軍の士気低下と撤退を狙ったのだろう。
 信長は朝倉軍の撤退を予測し、佐久間信盛・柴田勝家・丹羽長秀・木下藤吉郎といった重臣に、朝倉軍の追撃を命じた。ところが、重臣達は朝倉軍の撤退に確信が持てなかったのか動きが鈍く、撤退する朝倉軍を見逃して信長に先を越されてしまい、信長は重臣達を叱責した。この時、他の重臣達が信長に詫びる中、信盛だけは抗弁し、信長は激怒した。後に信盛が追放される際に、この時の態度が理由の一つとして挙げられている。義景が決戦を挑まず撤退したことへの避難はあろうが、重臣が相次いで寝返るなど、前年の時点で既に朝倉家は内部崩壊しかけており、今回もとても決戦を挑むどころではなかったろう。
 織田軍は朝倉軍を追撃して越前へと侵攻し、朝倉家の重臣を多く討ち取ったが、この中には朝倉家へ身を寄せていた元美濃国主の斉藤龍興もいた。義景は本拠の一乗谷から更に大野郡の賢正寺まで逃げたが、同族の景鏡に裏切られて20日に自害し、義景の嫡男と母親も丹羽長秀により殺害された。こうして朝倉家は滅亡して越前は平定され、前年に朝倉家から織田家へ寝返った前波吉継が守護代に任命された。義景は暗愚との評価が専らだが、自己よりも強大な織田家相手に足掛け4年に亘って戦っており、言われている程には無能ではなかったと思う。
 信長は朝倉家を滅ぼすと即座に近江へ戻り、小谷城の南2kmにある虎後前山に入って、小谷城に攻め寄せた。浅井長政の父久政は28日、長政は9月1日に自害し、ここに浅井家は滅亡した。長政に嫁いでいた信長の妹は娘3人と共に助けられたが、長政の嫡男は磔刑に処せられた。信長は4日には六角義賢の立て籠もる鯰江城を攻めて落とし、6日に岐阜に帰還した。
 信長の次の目標は北伊勢の諸一揆で、24日に岐阜を出陣し、1ヶ月かけて各地を平定したが、10月25日に帰還しようとしたところ、伊賀・甲賀の豪族も加わった一揆に攻撃され、殿軍を務めた林新次郎(秀貞の息子)が討ち死にした。岐阜に帰還した信長は11月4日に岐阜を発って上洛し、佐久間信盛に命じて若江城の三好義継を攻めさせた。義継の家老は情勢不利と判断して裏切り、義継16日に自害に追い込まれた。12月2日、信長は岐阜に帰還し、松永久秀の立て籠もる多聞山城を攻めさせ、26日に久秀は降参して城を明け渡した。久秀は許されて信貴山城へと移った。
 こうして、畿内も概ね平定され、この4年近い騒乱の結果、畿内も概ね織田領となった。織田領は約360万石となり、織田家に次ぐと思われる毛利家が約110万石だから、この騒乱の結果、織田家は隔絶した存在になったと言えよう。

 1570年から1573年の足掛け4年間は、「信長包囲網」が敷かれて信長にとって特に苦しい時期だったとされる。確かに、元亀元年後半には浅井・朝倉連合軍が京都に迫るなど、信長が苦境にあったことを否定するつもりはないが、それを過大視してはならないだろう。
 この包囲網は最初から周到に計画された緻密なものではなく、随分と穴があったのであり、武田信玄の動向が示しているように、織田家の打倒という意味で有効に機能したとは言い難い。従って、信長は確固撃破の形に持っていくことが可能となり、この間も織田本隊は常に敵の兵力を圧倒していたと推測される。少なくとも、本隊が敵よりもかなり劣勢で対峙したことはないだろう。更に、信長は朝廷と幕府を握っており、必要とあらば両者を動かして講和を持ちかけることができるのだから、条件は随分と有利だと言える。
 とはいえ、朝廷と幕府を持ち出しての外交交渉を利用しつつ、この包囲網を打ち破って大幅に勢力を拡大した信長の手腕は大したものである。機を見るに敏な信長の資質が如何なく発揮されたと言えよう。

 

 

歴史雑文最新一覧へ   先頭へ