信長の野望(20)長島

 

 「包囲網」を打ち破り危機を脱した信長だが、本願寺・一向一揆との対立は解消されておらず、これを制圧するのが次の目標となった。たが、本願寺・一向一揆は手強い存在で、意外な感もあるが、大苦戦を強いられたとの印象がある1570年〜1573年よりも、1574年〜本願寺が石山(現在の大阪)を退去した天正8年8月までの方が、領地の拡大は鈍っている。これは、義昭が暗躍して「第二次信長包囲網」を築いたためでもあり、「第一次包囲網」の反省点を踏まえたのか、「第二次包囲網」の方が効果的に機能したのである。ただ、織田家も国力は随分と増しているから、苦戦しつつもこの「包囲網」を打破することができた。

 1574年1月、越前にて一揆と結んだ富田長繁が蜂起し、前年に信長より越前守護代に任じられていた桂田長俊(前波吉継から改名)らを攻め殺すという事件が起きた。富田も桂田も、2年前に朝倉家より織田家に寝返っているが、桂田は守護代として専権を振るい、嘗ての同輩にも傲慢な態度を取ったので、反感を持たれたのだと云う。一揆は越前北庄に駐留していた織田家から派遣された三奉行をも追放し、織田家は一気に越前を失ってしまった。この後越前では、2月になって本願寺門徒の「国中一揆」が加賀から本願寺家臣の七里頼周を大将に迎えて蜂起し、4月には越前を制圧している。この間、富田は「国中一揆」と対立して討ち死にし、更には織田家に寝返った朝倉景鏡など有力な朝倉旧臣も概ね「国中一揆」に攻め滅ぼされ、越前は本願寺と一向一揆の支配する国となった。信長は、すぐには越前に攻め込まず、押さえを置くに留めたが、これは南方の一揆の制圧が優先だと判断していたからだろう。

 信玄が死亡した後も武田家の軍事行動は活発で、信玄の跡を継いだ勝頼は1月27日に美濃東部の明智城に攻め寄せ、信長も救援に赴いたが、山中のため行軍に手間取り、救援は間に合わず落城している。更に勝頼は、6月5日には徳川方の遠江高遠城に攻め寄せ、徳川家康は信長に援軍を要請したが、織田・徳川の援軍が到着する前に内応により落城した。信玄も攻め落せなかった堅城を奪取したということで、勝頼の武威は高まった。このように武田家は信玄没後も着実に成果を上げていたが、織田家を脅かすまでにはいかなかった。信玄から勝頼への代替わりに伴う体制整備で活動を控えている間に、浅井・朝倉家や畿内の反織田勢力は織田軍に掃蕩されてしまっており、織田家に随分と余裕ができていたからである。武田家にとっては何とも間が悪かったということになる。

 遠江から帰還した信長は、二度に亘って敗北を喫した長島一向一揆の鎮圧に向かう。信長は7月13日に岐阜を発ち、長島へと向かった。兵数は不明だが、嫡男信忠を初めとして、柴田勝家・佐久間信盛・丹羽長秀・林秀貞など主だった重臣も従軍しており、かなりの大軍だったことは間違いなかろう。織田軍は長島を包囲して砦を制圧していき、兵糧の尽きた一揆は9月29日に降伏を申し出て長島を退去したが、織田軍は一揆勢に鉄砲を撃ち掛け、これに一揆側も反撃に出て、兄の信広など信長の親族を初めとして側の者が多数討ち死にした。織田軍が鉄砲を撃ち掛けてきたのを見て一揆勢の大半は砦に残り、織田軍はこれに火を付けて男女合わせて2万もの人間が死亡したと云う。ただ、これは誇張されて伝えられている可能性もあり、そのまま史実として受け取ってよいものか疑問もある。それはともかく、4年近くに亘って伊勢・尾張間の障害となり度々苦しめられてきた長島一揆の鎮圧により、織田軍の行動の自由が増したことになる。

 年が明けて1575年4月6日、上洛していた信長は京都を発ち、本願寺と提携している三好康長の立て籠もる高屋城へと向かった。信長は、高屋や石山近辺で苅田を行ない、敵の兵糧を断って圧力をかけていった。19日には新堀城を落とし、香西越後や十河因幡などの首を斬った。情勢不利と見た康長は信長の右筆である松井友閑を通じて降伏し、赦されている。この時、高屋城を初めとして河内の城は破却されている。一揆などが城に立て籠もるのを防ごうとしたのだろうが、河内に攻め込まれることはないという信長の自信を示しているとも言えよう。信長は、京都を経て28日に岐阜に帰還した。

 

 

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