信長の野望(21)長篠

 

 1575年3月下旬、武田勝頼は大軍を率いて三河へと侵攻し、5月11日には長篠城を包囲した。長篠城主の奥平貞能は信玄没後間もなく武田家から徳川家へと寝返った。そのため貞能は、再度鞍替えしても許される可能性は低く、勝頼が大軍を率いて攻め寄せてきても、徹底抗戦するしかなかった。勝頼にしても、代替わりした途端に寝返った貞能を放置しておくのは威信に関わることであり、長篠城攻めは優先順位が高かった。
 信長は5月13日に岐阜を発って長篠城へと向かい、18日には長篠城西方約5kmの極楽寺山に布陣した。織田軍諸部隊は更に前進し、長篠城から3〜4km西方のあるみ原(現在は設楽原)に徳川軍と共に布陣し、野戦陣地を築いた。これに対して勝頼は、一部を長篠城包囲に残し、軍の大半を20日にあるみ原へと進め、連吾川を挟んで武田軍と織田・徳川連合軍が対峙した。

 織田軍が長篠城の手前で進撃を停止して野戦陣地を構築したのは、長岡(細川)藤孝宛の書状から推測するに、武田軍が要害の地に陣取っているため、迂闊に進撃すれば大損害を出すと判断したからだろう。とはいえ、このままでは長篠城の陥落を傍観することになりかねず、これでは前年の高天神城陥落の二の舞である。故に、信長は武田軍を野戦に誘い出す必要があったのだが、『信長公記』に敵がたへ見えざる様に、段ゝに御人数三万ばかり立て置かるとあることから推測すると、兵の隠匿を意図していたようである。恐らく信長は、自軍の兵数を過小に見積もらせることにより、勝頼が野戦陣地への攻撃を決意するよう仕向けたのだろう。だが、これは賭けであり、勝頼が織田・徳川連合軍を無視して長篠城攻めに専念する可能性も充分あった。だが実際には、武田軍は野戦陣地へと攻め寄せてきたわけで、証拠はないのだが、恐らく偽情報を武田軍に流していて、これに勝頼が引っ掛かってしまったのだろう。

 20日に武田軍があるみ原へと進撃してきたとはいえ、このまま両軍が対峙する可能性もあり、信長は武田軍の突撃を促すべく更に手を打った。徳川軍と織田軍からそれぞれ2000人ずつ引き抜いて別働隊を結成し、家康家臣の酒井忠次をに指揮をさせ、武田軍が鳶の巣山に築いた付城に向けて20日午後8時に出撃させたのである。別働隊は翌日午前8時には鳶の巣山を占領して長篠城の籠城軍と合流した。
 ここで武田軍としては退却するという手もあったのだが、恐らくは織田・徳川連合軍の兵数を低く見積もっていたのだろう。武田軍は各部隊ごとに野戦陣地へと攻め寄せたが、兵力の差は如何ともし難くて午後2時には敗走し、山県昌景・馬場信春・土屋昌次・内藤昌豊・真田信綱といった多数の重臣が討ち取られるという惨敗を喫してしまった。前述したように織田軍の兵力は3万で、徳川軍は不明だが1万はいただろう。武田軍の兵力は15000だから、これらの数字が正確かどうかは分からないが、少なくとも武田軍は兵力でかなり劣勢だったことは間違いない。兵力の劣勢な側が野戦陣地に向かって攻め寄せたわけだから、武田軍の敗走も当然だったと言える。

 長篠の戦いは、従来の戦術を一変するものとしてされている。つまり、騎馬隊から足軽鉄砲隊へと主力兵科が転換し、鉄砲が効果的に大量使用される契機となったとされているのだが、この見解は甚だ怪しい。よく言われる3000丁の鉄砲による三段撃ちには疑問が呈されており、そもそも戦国時代の日本に騎馬隊は存在しなかった。鉄炮の大量使用は信長が日本で初とは言い難く、長篠の戦いの前後で戦術が一変したということはないが、野戦陣地の規模は日本史上空前のものだったようで、数々の「長篠神話」が創作された一因はそこにあるのかもしれない。
 ただ、巷間言われているような「長篠神話」が虚構だったとしても、名将の勝頼を誘い出して武田軍を敗走させ、武田家重臣を多数討ち取ったのだから、長篠の戦いにおける信長の手腕は高く評価されるべきである。

 

 

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