信長の野望(22)越前平定

 

 長篠の戦いで武田家の圧力を大いに減じた信長は、次の目標を越前の奪回に定めた。前年に越前は一向一揆を主とする諸一揆の支配する国となっていたが、派遣された本願寺家臣の搾取がひどく、多数の一揆がこれに反発して分裂状態となっていた。信長はこの機を逃さず、8月12日に3万人を率いて岐阜を発ち、越前へと向かった。一向一揆は外征能力こそ低いものの、動員能力は桁外れだから、平定は容易ではないところだが、分裂状態にあったため、大きく苦戦することなく越前は平定されることとなった。もっとも、信長は所与の条件に甘んじることなく越前の諸勢力に根回しをしている。
 織田軍は各地の砦や城に立て籠もった一揆を鎮圧していき、生け捕りと殺害を合わせると3〜4万人になったと云う。ただ、長島一揆の鎮圧と同様に、これも誇張されている可能性はあるが、そうだとしても、かなり残酷な処置が取られたことは間違いなさそうである。織田軍は8月中には越前を概ね平定し、更に加賀南部の2郡までも制圧した。柴田勝家には越前8郡が与えられ、勝家は越前の事実上の国主となり、不破光治・佐々成政・前田利家の3人が勝家の目付けに任命されて2郡を与えられた。更に信長は、条書にて越前の施政方針を指示している。越前の仕置きを終えた信長は、9月28日に岐阜に帰還した。

 信長は10月10日に上洛し、11月には嘗て源頼朝も任官した右近衛大将に任じられている。この間、武田軍を長篠で撃破し、10月には本願寺と和睦しており、今や武家の棟梁とも言うべき地位に就いた。この時期まで、建前だとしても、信長は室町幕府体制を否定はしなかったが、この時期以降は幕府体制の維持・復活を企図した様子はなく、またこの時期以降は諸大名に対する信長の文書が花押から朱印に変化し、表現も尊大化している。
 この間、武田軍が美濃方面から侵攻してきたので、嫡男の信忠が迎撃に向かい、信長も京都を発って11月15日に岐阜に帰還した。武田軍は夜襲してきたが、織田軍はこれを撃退し、更には武田家にとって美濃における橋頭堡とも言うべき岩村城をも一気に落とした。信忠の活躍に信長は満足し、その器量を認めたようで、11月28日に信長は家督を信忠に譲ったが、依然として実権を握っていたことは言うまでもない。
 年が明けて1576年1月、信長は丹羽長秀に安土城の普請を命じ、2月23日には安土城に移っている。この居城移動は、恐らくは本願寺攻略に備えてのことで、居城から本願寺への距離を縮めようとしたのだろう。
 こうして見ると、天正3年11月の前後は織田政権の一大転機だったと言えるように思う。これまで、まがりなりにも室町幕府体制の護持を掲げることで勢力を拡大してきた信長が、堂々と自らを中央武家政権の最高権力者として位置付けるようになったわけである。慎重な信長は、日本最大の大名となっても幕府を奉ずる姿勢を崩さなかったが、他家を圧倒する国力を築き、義昭との対立が修復不能となったからには、自らを武家の棟梁と位置付けて勢力を拡大し、全国の統一を果たそうと考えたのだろう。

 だが、ここから意外と織田家の勢力は伸び悩む。恐らく、信長の右近衛大将就任は自らの存在意義を揺るがしかねないと義昭は考えただろうから、必死になって反織田勢力の結集に努めたのだろう。その結果、今度は毛利家を反織田勢力に引き込むことに成功し、信長はある意味で前回の「包囲網」以上に苦しむこととなる。
 紀伊の由良にいた義昭は毛利家を頼ることとし、毛利家は備後の鞆に義昭を迎え入れた。毛利家には、織田家と勢力圏が接してきたので、義昭を奉じて反織田勢力を結集して織田家を牽制しようとの狙いがあったのだろう。また、右近衛大将に就任し、恰も武家の棟梁の如き地位にて勢力拡大を図る信長を脅威として強く警戒し始めたということもあろう。
 信長の方も、毛利家は大国とあって友好関係維持に努めていて、例えば天正元年には、織田家による浅井・朝倉家の平定を祝して小早川隆景が信長に太刀と馬を贈呈したのに対して御礼の書状を送っている。だが、1575年頃より次第に毛利家との友好関係維持には努力を払わなくなったようで、同年7月には但馬を巡っての両者の思惑に食い違いが見られるが、これは信長が自己の国力と権威とに強い自信を持つに至ったからなのだろう。

 

 

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