信長の野望(23)石山合戦

 

 1576年4月14日、信長は荒木村重・長岡藤孝・明智光秀・原田直政の4人に石山本願寺の攻略を命じた。前年に本願寺と織田家との間には和睦が成立していたが、恐らくは義昭の扇動もあったのだろう、再び本願寺と織田家は戦うこととなった。
 5月3日、本願寺軍約1万は数千挺の鉄砲を持って直政軍に攻め寄せ、直政は討ち死にしてしまった。恐らく、本願寺軍には鉄炮の運用に長けた雑賀衆がいたのだろう。本願寺軍はそのまま明智光秀らの立て籠もる天王寺まで攻め込み、京都にいた信長は諸国に命じて兵を集めて5日に出陣したが、急なことで兵の集まりは芳しくなかったようで、士分の者は集結しても雑兵達はなかなか到着しなかったようである。これは当時の軍編成を考えてみるとある程度は納得のいくことで、騎乗兵は士分の者だけであり、大多数の雑兵達は徒歩兵なのである。
 思うように兵は集まらなかったが、信長は7日になって3000の兵を率いて15000の敵軍へと突撃し、敵方の数千挺の鉄砲の銃弾が降り注ぐ中、足を撃たれて負傷しつつも果敢に突撃して敵軍を敗走させ、石山の出入り口近くまで攻め寄せて敵兵2700を討ち取ったと云う。
 だが、この突撃には佐久間信盛・松永久秀・滝川一益・羽柴秀吉などといった重臣達が参加しており、僅か3000の兵だったとは考えにくく、当時の公家の日記に織田軍の戦果が誇張して伝えられているのに対して、軍記では戦果が控えめに記されていることから、苦戦していた信長が偽情報を各地に流した、と推測される。信長は6月5日に戦場を離れ、7日に安土に帰還したが、恐らくは手痛い打撃を被り石山本願寺の堅固さを改めて思い知らされ、早期の陥落は無理と判断して包囲に徹したのだろう。
 これに対して本願寺側は毛利家に救援を要請し、毛利軍は800艘の船で石山に迫り、織田軍は300艘でこれを迎え撃ったが、やはり戦力差は如何ともし難く織田軍は大敗し、毛利軍は石山に無事兵粮を入れるのに成功した(第一次木津川口の戦い)。この時点では、織田軍の水軍は毛利軍よりも貧弱だったのだろう。この後、翌年まで信長は軍事行動を起こしていない。

 年が明けて天正5年、信長は紀伊の雑賀衆の制圧へと向かった。雑賀衆は石山本願寺にとって重要な戦力であり、これを制圧することで石山本願寺の軍事力を低下させようとしたのだろう。この時、紀伊の根来寺のみならず、雑賀衆の中からも事前に織田軍への参陣を表明してきた者がおり、雑賀衆も決して一枚岩ではなかった。
 織田軍の兵数は5・6万〜15万と随分と開きがあり、これに対して雑賀軍は数千人とされ、織田軍が兵数で圧倒していたことはまちがいなく、3月21日には降伏してきた雑賀衆を信長が赦免したとされるが、これは疑わしく、織田軍は結局雑賀に有効な打撃を与えられなかったようで、実態は講和に近かったらしい。実際、紀伊の宮・中川・南の3郷が雑賀残党の掃蕩への協力を申し出たのに対して、信長は5月16日付の朱印状にて、三組の者が挙兵次第に出兵し、恩賞も戦功次第と約束している。この後、『信長公記』には記載がないが、諸文献には織田軍の再度の雑賀侵攻が記載されており、この時も織田軍は苦戦し、大した成果もなく撤退したようである。

 義昭は、本願寺と毛利家のみならず上杉家をも反織田同盟に引き込むことに成功し、義昭の仲介もあって本願寺・一向一揆との対立が解消された上杉家は、越中から能登・加賀へと西侵することが可能となった。上杉軍は越中から能登へと向かい、これに対して信長は柴田勝家を大将とし、滝川一益・羽柴秀吉・丹羽長秀などを付けて8月8日に加賀・能登へと向かわせつつ、一方では出羽の伊達輝宗に上杉家を牽制するよう書状を送っている。
 能登の畠山家は織田派と上杉派に分かれて内部対立しており、上杉軍が本拠の七尾城を包囲すると、9月15日に上杉派が織田派を粛清して開城し、七尾城は上杉家の勢力化に置かれた。七尾城が敵方に渡ったとあっては仕方なく、織田軍は撤退することとなったが、退却戦というのは浮き足立ってしまうので難しく、この時も上杉軍が追撃してきた。運悪く手取川が増水していたこともあって、討ち取られたり溺死したりした者が出てしまった(9月23日、手取川の戦い)。
 上杉軍の武威を高めた有名な戦いだが、織田軍も致命的な損害を出したわけではなかったようで、元々追撃戦で始まったということもあり、上杉軍や謙信を手放しで礼賛するのはどうかと思う。この後、上杉軍は追撃は続行せず、本国の越後に帰還している。恐らく謙信にとって、北陸よりも略奪の場である関東の方が重要だったのだろうし、既に本拠の春日山城から随分と遠くまで来ているので、これ以上追撃すると補給が続かないとの判断もあったのだろう。
 義昭と通じていた松永久秀は、謙信の西侵と呼応して8月17日に大和信貴山城で決起したが、肝心の謙信が西侵を止めて越後に帰還したため、織田信忠・羽柴秀吉・佐久間信盛・丹羽長秀ら織田軍主力に攻められ、10月10日に自害した。久秀が離反したのは、宿敵の筒井順慶が重用されるなど、冷遇されていると考えたためであろうが、「第一次信長方位網」の時に一度信長から離反しているのだから、自業自得と言える。下克上の代表的存在の如く言われている「梟雄」久秀も最期はあっけなく、年老いて判断能力が鈍っていたのだろうか。

 

 

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