信長の野望(24)謙信の死

 

 1577年10月23日、信長は羽柴秀吉に播磨への出陣を命じた。当時、毛利家と織田家との勢力圏は播磨で接するようになっており、遂に両者の直接対決が始まった。この時点で、織田領は約400万石、毛利領は約140万石といったところだが、毛利家は宇喜多家と山名家とを半ば従属させていて、播磨にも勢力を伸ばしているから、勢力圏では180万石程度にはなり、更に同盟勢力として本願寺・一向一揆と約130万石の上杉家がいる。織田家にも徳川家などの友好勢力がいるから、本願寺・一向一揆が加わったとしても、織田方有利なのは間違いないが、それでも勝負にはなりそうな勢力比で、本願寺がしぶとく抵抗したのも、織田家から毛利家に寝返る者が出たのも、納得がいく。狂信的な信仰心により抵抗したとの俗説は的外れと言うべきであろう。
 秀吉は、播磨に侵出して毛利方の上月城を落としたばかりか、但馬にも出て山口・竹田城をも奪取している。上月城には、尼子残党の山中幸盛(鹿之助)が城番に任命され、山中は尼子家復興の旗頭として掲げる勝久を擁して入城したが、翌年2月に一旦毛利方の宇喜多直家に追い払われ、その翌月に秀吉の支援で奪回し、再度勝久を擁して入城した。信長は、毛利家の宿敵である尼子家を利用して勢力拡大を図ったわけである。

 年が明けて1578年3月9日、上杉謙信は関東出陣を目前に控えて昏倒し、13日に死亡した。この後、謙信の養子となっていた景勝(謙信の甥)と景虎(北条氏康の七男)が家督を巡って争い、翌年3月に景勝が勝利して家督を継ぎ、景虎は自害に追い込まれた(御館の乱)。1年にも及んだ家督争いの結果、元々強固ではない上杉家の領国は統制が弛緩してしまい、織田家に付け入る隙を与えてしまった。
 謙信のこの時期の死は信長にとって幸運だったと言われるが、謙信死後の御館の乱で上杉家は弱体化したから、確かにその通りだと言える。ただ、謙信が健在だった場合、信長はその地位が危うかったとの指摘は、誤りだろう。この時点で上杉家が織田家を打倒できる可能性は、信玄が西侵を開始した時点で武田家が織田家を打倒できる可能性よりも遥かに低かっただろうし、何よりも謙信がとこまで本気で織田家打倒を考えていたか疑わしく、謙信にとっては関東での物品の略奪と奴隷狩りの方が重要だったと思われる。謙信も信玄と同様に、後世の評価という視点からは、信長との本格的な対決がなかったのは幸運だったと言えるかもしれない。

 4月4日、信忠を大将として北畠信雄(信長次男)・神戸信孝(信長三男)・明智光秀・津田信澄(信長の甥で光秀の娘婿)・滝川一益・丹羽長秀・蜂屋頼隆も加わった織田軍は石山本願寺へと向かい、5・6日には石山近辺の麦の苗を薙ぎ捨てた(苅田)。戦国時代の常套作戦とも言うべき苅田を行なうことで、本願寺に対する兵粮攻めの強化を狙ったのだろう。続いて明智・滝川・丹羽の3人は丹波へと向かい、10日には荒木山城を落としている。
 4月中旬、毛利・宇喜多連合軍が山陽道を上ってきて、尼子残党の立て籠もる上月城を包囲した。羽柴秀吉と荒木村重が救援に向かったが、地形が険しく、また毛利・宇喜多連合軍が大軍だったためだろうか、救援を断念した。5月1日、信長は信忠・信雄・信孝らに命じて播磨へ救援に赴かせたが、やはり戦況は芳しくなく、上月城の救援は断念し、織田家から毛利家へと寝返った別所長治の立て籠もる三木城へと攻略目標を変更した。織田軍は別所方の神吉城を7月15日に落としたが、三木城は堅固なため、信忠は8月17日に播磨から帰還し、羽柴軍が包囲を続けた。この間、7月5日には上月城が陥落している。

 2年前の第一次木津川口の戦いで毛利軍に敗北して以降、信長は九鬼嘉隆と滝川一益に命じて水軍の増強に努め、石山近辺の制海権を握るべく6月26日に九鬼に命じて石山近海へと向かわせた。これに対して雑賀衆などが攻撃を仕掛けてきたが、織田水軍は一蹴した。国力に物を言わせた水軍増強の成果と言えよう。織田水軍が新たに建造した船の中にはかなりの大きさのものもあったようで、当時随分と評判になったが、この大船がかなりの戦力となったのだろう。
 10月に入ると、摂津一国を任されていた荒木村重が有岡城にて謀反を企てているとの情報が各所より信長に届くようになった。畿内の要所を任されている村重が寝返るのは大打撃だから、信長は村重を説得しようとしたが、結局村重は従わず、信長は信忠・信雄・信孝・明智光秀・滝川一益・羽柴秀吉・佐久間信盛らに加えて、北陸からも前田利家・佐々成政らを動員し、11月9日に出陣した。信長が如何に村重の謀反を重視していたかが分かる。村重は義昭・毛利家・本願寺に通じて謀反を起こしたのだが、その理由はどうもよく分からない。
 この間、11月6日に毛利水軍が石山に兵粮を入れるべく再び来襲してきたが、今度は織田水軍が圧勝した(第二次木津川口の戦い)。2年間で両水軍の力関係が逆転したわけで、これは国力の差と言うべきだろうか。信長は村重の与力だった高山右近や中川清秀を調略で自陣営に引き込み、村重の孤立化を図った。織田軍は荒木方の砦・城を落としていき、更には例によって荒木方の町や村を焼き払っていき、付城を築いて村重の立て籠もる有岡城への圧力を強めた。信長は、村重包囲網は充分整ったと判断したのか、秀吉を播磨、光秀を丹波へと向かわせ、自身も12月25日には安土城へと帰還し、村重攻略は年を越すこととなった。

 年が明けて天正7年、信長は3・4月と有岡城攻略の督戦を行ない、5月には有名な安土宗論で法華宗と浄土宗の僧侶を議論させ、敗北した法華宗に今後一切法難しないよう起請文を提出させている。8月には明智光秀により丹波が概ね平定され、柴田勝家は上杉家の混乱に乗じて加賀へと侵攻した。
 9月2日、村重は5・6人を連れて密かに有岡城を脱出し、花熊城へと向かった。光秀は村重赦免のために信長に願い出たが、交渉は上手くいかず、村重の家族・家臣合わせて約530人は年末になって焼き殺されたり斬首されたりした。村重の離反は、織田家にとって大打撃だったと言えよう。光秀の丹波平定などがあったにせよ、1年間に亘って織田軍の西方への拡大が鈍くなってしまった。ただ、この間に宇喜多家が羽柴秀吉を通じて織田家への帰参を願い出ている。これで一気に備前が織田家の勢力圏となるところだが、信長は宇喜多家は攻め滅ぼすつもりだっのか、秀吉を叱責して追い返している。また、信雄は9月17日に伊賀へ攻め込んだが敗退し、信長に叱責されている。

 

 

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