信長の野望(25)本願寺との和睦

 

 1580年1月17日、羽柴秀吉は長い包囲の末に三木城を開城させ、城主の別所長治は自害した。今や、播磨は織田家が制圧しつつあり、荒木村重は有岡城を脱して勢力を大いに失い、備前の宇喜多直家は毛利家から織田家へ鞍替えし、上杉家は御館の乱で弱体化、毛利家も水軍が織田家の水軍に打ち破られてしまった。本願寺はジリ貧に陥ってしまい、前年末より始まっていた織田家との講和交渉の妥結を急がざるを得なくなってしまった。
 3月17日、信長は本願寺に講和の条件として大坂(石山)からの退去を要求し、前法主顕如の息子で新法主教如(光寿)は織田家との講和に反対し、各地に檄を飛ばして抵抗したが、その教如も8月2日には石山を退去した。これより前、顕如は4月9日に大坂を退去している。本願寺と織田家との抗争は、断続的に10年近く続いたわけである。
 本願寺との講和は織田家にとって一大転機となった。これにより、「第二次信長包囲網」は完全に破綻し、以後織田家は本能寺の変まで他勢力に脅かされることはもはやなく、順調に勢力を拡大していくことになる。この時点での織田家の所領は約440万石といったところで、「第一次信長包囲網」を脱した天正元年末時点での所領が約360万石だから、6年かけて80万石程増やしたことになる。苦しかったと言われている「第一次信長包囲網」の元亀元年〜天正元年の4年弱で約160万石増やしているわけだから、明らかに勢力拡張の速度は落ちている。「元手」を考慮すると、第一次よりも第二次の方が苦戦したとも言えるだろう。
 これは、第一次の反省を踏まえたのか、義昭が諸勢力の連携に腐心したためでもあると思う。ただそれでも、やはり所詮は烏合の衆と言うべきで、例えば上杉家の西侵と松永久秀の決起がちぐはぐな形となって上手く連携が成立しなかったあたりに、自身の経済・軍事力の劣る義昭が暗躍して結成させた諸勢力同盟の限界があると言えよう。

 閏3月、柴田勝家は加賀へと侵攻し、11月には概ね制圧している。羽柴秀吉は4月に播磨の残敵掃蕩に乗り出し、6月にはそこから但馬を経て因幡と伯耆に侵攻している。こうして活躍している重臣がいる一方で、8月になって佐久間信盛・林秀貞・丹羽氏勝・安藤守就が8月になって信長により追放されている。
 本願寺との講和も成立し、もはや織田家を脅かす勢力が存在しなくなったということで、不要な家臣の粛清に乗り出したのだろうが、信盛と秀貞は譜代の家老級的存在だっただけに、衝撃は大きかっただろう。信盛の場合は、石山攻めで大した功績がなかったことや金を貯めるばかりで人を雇わないことなどが、秀貞・氏勝・守就の場合は、嘗て謀反・内通を企てたということが追放理由で、家臣団の綱紀粛正も意図していたのだろう。

 年が明けて1581年2月28日、信長は京都にて正親町天皇を招いて盛大な馬揃えを主催し、武家の棟梁としての地位を強く印象付けることとなった。3月には、馬揃えで信長配下の有力諸将が不在であるのにつけ込んで、上杉景勝が越前・加賀・越中で一揆を扇動したが、佐久間盛政と佐々成政に阻まれ、織田家は越中の西半分を制圧するのに成功した。また能登では、6月27日に上杉派の遊佐続光らが信長の命を受けた七尾城代の菅屋長頼に殺害され、温井長盛といった他の主だった上杉派は逐電し、能登は織田家の領国となった。10月に能登は前田利家に与えられ、利家は越前府中から移転することとなった。またこの時、能登と越中の城を破却するよう長頼は信長に命じられており、「鉢植え領主」と「一国一城」という近世社会の特色がこの時点でも認められる。
 中国戦線では、6月25日に羽柴秀吉が2万の軍を率いて山陰に出陣し、7月には毛利方の因幡鳥取城を包囲した。3ヶ月に亘る包囲戦の末、10月25日、城主の吉川経家は自害し、開城となった。更に秀吉は、毛利軍が伯耆の織田方の城へ侵攻してきたので自ら援軍として赴き、兵粮と兵を増強して11月8日に姫路に帰還した。こうして、山陰では伯耆の東部と因幡が織田領となった。秀吉は17日には淡路へと兵を派遣し、これを制圧している。佐久間信盛の追放を教訓としたのか、秀吉の働きには目覚ましいものがある。
 畿内近国では、9月3日に信雄を大将として滝川一益・丹羽長秀・蒲生氏郷が伊賀へと攻め込み、11日には概ね平定している。10月9日に、信長は信忠と津田信澄を連れて平定したばかりの伊賀を訪問している。もはや大敵の存在しない織田家は、この年順調に勢力を拡大した。

 年が明けて1582年2月1日、武田家臣で信濃福島城主の木曾義昌が織田家への寝返りを申し出てきた。信長はこれを好機として出陣を命じ、信忠を大将として滝川一益・明智光秀・河尻秀隆らが従った。この遠征では、信長は徳川家・北条家とも連携している。嘗ては武田家の同盟者だった北条家は、勝頼が御館の乱で北条家から上杉家に養子に入った景虎ではなく景勝を支持したことから、武田家と絶交したのである。長篠の戦いで重臣を多数失った武田家は、その後の徳川・織田の軍事的圧力に疲弊し、崩壊しかけていた。そのため、織田軍が信濃に侵攻すると、武田軍は有効な反撃が殆どできず、家臣が相次いで織田家に寝返った。追い詰められた勝頼は3月11日に自害し、武田家は一気に瓦解してしまった。
 1月までは、武田家は曲りなりにも100万石近くを誇る大大名であったが、如何に内部崩壊が進行していたとはいえ、それが織田軍の侵攻から僅か1ヶ月ばかりで滅亡してしまうのだから、もはや織田家の国力は他家と隔絶したものとなっていた。武田家は、信玄の代から諸役免除といった手段を用いてまで兵の確保に腐心したのに対し、信長はこの遠征に際して、
右遠陣の儀に候条、人数少なく召し連れ、と命じているくらいで、こういう状況では、名将の勝頼といえども如何ともし難かっただろう。信長は3月5日に安土を発ち、13日に信濃へと入った。
 信長は29日に国割を伝達し、甲斐は河尻秀隆、駿河は徳川家康、上野は時期の織田家は圧倒的な国力を背景に信長が重臣四面楚歌となった織田軍は、大敵影響が後詰迎撃三月前で引き締め滝川一益、信濃は森長可・毛利長秀らが領することとなった。これで織田家の所領は約650万石となり、2年かけて約200万石を増やしたことになる。これに事実上の配下といってよい徳川家と宇喜多家を加えると、織田家の勢力圏は740万石なり、日本の4割以上を占めることになるのである。本願寺との和睦後、織田家の勢力拡大は順調で、もはやこれを阻止する勢力など日本には存在しないかの如くであった。 信長は帰途家康の歓待を受けて富士山を見物し、4月21日に安土に帰還した。

 

 

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