信長の野望(26)本能寺の変
安土に帰還した信長は、駿河にて歓待を受けた家康に返礼をすることとし、家康と穴山梅雪を安土に招いた。家康は、5月15日に安土に到着している。家康と梅雪は21日に上洛し、京都・大坂・奈良・堺の見物へと向かった。
この頃、羽柴秀吉は備中へと侵出して清水宗治の守る高松城を包囲していたが、これに対して毛利家は援軍を出し、秀吉は信長に援軍を要請してきた。信長は、この機に中国から九州までを一気に平定しようと考え、明智光秀・池田恒興らに援軍に赴くよう命じ、自身は29日に小姓20〜30人を連れて上洛し、本能寺に入った。
ここで織田軍の配置状況を整理しておく。まず信長の子息の中でも有力な3人だが、7年前に家督を継いだ信忠は京都の妙覚寺に滞在し、信雄は領国伊勢に、信孝は丹羽長秀と共に四国侵攻に備えて大坂にいた。有力家臣では、滝川一益は上野の廐橋城におり、柴田勝家は上杉方の越中魚津城を、秀吉は上述の如く備中高松城を包囲中で、明智光秀は秀吉への後詰に備えて領国である丹波の亀山城にいた。恐らく、大坂の信孝軍は四国侵攻に備えての寄せ集めの軍だったから、京都近辺で纏まった軍を率いているのは光秀だけであった。
6月2日、光秀は本能寺を襲撃し、20〜30人の小姓と合わせて側に50人もいなかったであろう信長は、為す術なく横死した。信忠はこの報を受けて二条城へと向かって明智軍を迎え撃ったが、やはり衆寡敵せず自害した。織田家は、一気に事実上の当主とその跡継ぎを失ってしまい、光秀としてはここまでは申し分ない成果と言える。
光秀の謀反の理由については様々な説が唱えられており、ここで卑見を披露するだけの準備はできていないが、当時の織田軍の配置状況が光秀に謀反を決意させた一因となったことは間違いないと思う。信長と信忠が無防備といってよい状況で京都におり、上述したように京都近辺で纏まった軍を率いているのは光秀だけであった。滝川一益は関東におり、北条家が事変を知れば、一益を攻撃する可能性は高い。勝家は上杉軍と、秀吉は毛利軍と対峙しており、すぐには引き返してこられない可能性が高い。伊勢半国と伊賀の信雄は脅威だが、勢力は光秀の方が優勢である。大坂の信孝の軍は混成部隊で、信長と信忠が死亡して尚、信孝が統制できるか疑問である。家康は僅かな家臣と共に畿内におり、信長と同様に無防備状態である。そうすると、信長と信忠を討ち取れば、すぐに脅威になりそうな勢力はなく、信雄・信孝・重臣達の軍が光秀を討つべく来襲するまで時間的な余裕が期待でき、その間に体制を整えれば返り討ちにできる可能性は高い。謀反を起こすには絶好の機会で、これを逃せば次にこのような機会が到来する保証はない。光秀としては、充分勝算のある謀反だったのだろう。
信長と信忠の死後、光秀は畿内とその近国の掌握に努め、例えば美濃では、2年前に信長に追放された安藤守就が光秀に呼応して決起している。また、警戒すべき信雄に対しては、伊勢と伊賀で一揆を扇動することによりその動きを封じており、信雄はこの一揆を平定するのに5ヶ月ほど要している。光秀は事変後僅か11日で敗死したことから、事変後の光秀の行動を非難する見解は根強く、事変後の光秀は無能だったとの見解もあるが、高柳光壽氏の言われる如く、事変後の光秀の処置は妥当なものであった。
事変を知った織田家臣団の中で、逸早く軍を率いて光秀を攻めたのは秀吉であった。滝川一益は関東で事変を知った北条軍に攻撃されて大敗し、柴田勝家は上杉軍の牽制のためすぐには大軍を撤退させられなかった。信孝は、終結していた兵が事変を知って動揺し脱走し始めたため、光秀を討つどころの話ではなかった。家康は、事変当時殆ど無防備な状態で堺にいたため、光秀討伐どころか自身の命も危うく、同行していた穴山梅雪は別行動を取って一揆に殺害されている。秀吉の行動以外は、概ね光秀の予測の範囲内だったと思われる。
3日に信長と信忠の死を知った秀吉は、以前より進められていた和睦交渉を4日に急ぎ取り纏め、5日には上方へ向けて撤退を開始した。この時、毛利軍は追撃してこず、これは光秀の想定外だっただろう。秀吉は、7日には居城の姫路城に帰還するという神速振りであったが、これは信長の援軍を迎えるために街道における進軍の準備が整っていたからであろう。所謂「中国大返し」である。事変後秀吉は、大坂の信孝と長秀など、畿内及びその近国の武将を味方に付けるべく活発な外交活動を展開している。
秀吉の素早い帰還の結果、池田恒興・中川清秀・高山右近といった摂津の光秀与力衆は、秀吉有利と判断して秀吉方に加担した。また、光秀が頼りとしていた長岡藤孝と筒井順慶も、光秀の勝利が危うくなったと判断して秀吉と通じたが、山崎の戦いまではどうも日和見の態度を取っていたようである。
この結果、光秀軍は秀吉・信孝連合軍に兵数で大きく劣ることとなり、13日の山崎の戦いでは、光秀軍と秀吉・信孝連合軍の兵力比は凡そ1:3となった。これでは、光秀が如何に名将だとしても勝算は殆どなく、やはり光秀軍は敗れ、光秀は同日、逃走中に落ち武者狩りに遭って死亡した。
光秀にとって、秀吉の素早い帰還は大誤算で致命傷となったのだが、光秀に過失を認めるとすれば、毛利家を過大評価していたということだろうか。光秀は、秀吉は毛利軍と対峙して帰還できないか、撤退しようとしても毛利軍に追撃されて敗走してしまうと考えたのだろうが、この当時の毛利家は圧倒的な織田家に攻められてジリ貧で、織田家(秀吉が中心となったのだろうが)の調略により軍役を懈怠する家臣団がおり、秀吉軍を追撃したとしても返り討ちに遭った可能性が高かったと思われる。毛利軍が秀吉軍を追撃しなかったのは、毛利軍首脳部もそのことを認識していたからだろう。
とはいえ、秀吉軍には直属ではなく与力の兵も多数いた筈で、場合によっては、信孝軍と同様に、兵士が動揺して逃亡してしまう恐れもあった。こうなると、毛利家が和睦に応じず秀吉軍を追撃して撃破した可能性もある。そうならずとも、備中高松城での対峙が長引き、秀吉軍は徒に日々を過ごすこととなり、その間に光秀が畿内とその近国を纏めてしまったかもしれない。
秀吉の成功は際どかったのであり、山崎の戦いの後も秀吉の覇権は必ずしも決定的なものとは言い難く、数々の随分と際どい政治工作の末に天下人となったのであった。そう考えると、本能寺の変で最大の利益を得たのは秀吉だったが、そのことを以って秀吉を本能寺の変の黒幕だとは言えないのではなかろうか。仮に、秀吉が勝算ありとして光秀を唆して謀反を起こさせたのだとしたら、随分と見通しが甘く、秀吉の評価は下げざるを得ないと思う。