人類史に疑惑?(13)

 

 現生人類(ホモ=サピエンス)の起源をめぐる議論と、邪馬台国の位置論争とは、何かと類似点が多いように思われる。もちろん、両方とも私が関心をもっているだけに、ついこじつけてしまうのかもしれないが、世間一般での理解のされ方において、よく似た点が認められるように思うのである。

 

 現生人類の起源をめぐってはアフリカ単一起源説と多地域並行進化説とが、邪馬台国の位置をめぐっては畿内説と九州説とが有力なのは、いまさら改めて述べるまでもないかもしれないが、近年になって、それぞれ単一起源説と畿内説とが断然有利になり、論争は収束に向かいつつある、というのがまず類似点として挙げられる。特に邪馬台国の位置論争は、もうほとんど問題にはならないといった感じで、畿内説を前提に、当時の社会・政治状況を考察する、という立場が主流のようである。

 単一起源説と畿内説とが世間一般に認知される過程には、何かと似た点が認められる。単一起源説の場合、1987年に発表されたミトコンドリアDNAの研究が、決定的な役割を果たした。レベッカ=キャン・マーク=ストーキング・アラン=ウィルソンの三氏は、現生人類の母系をたどると、20万年前のアフリカにいた一人の女性に行き着く、との内容の論文を発表された。これはイヴ仮説と呼ばれ、単一起源説の決定的根拠との理解が、世間一般では根強い。
 畿内説の場合、年輪年代法の測定結果により古墳の築造時期がさかのぼることが判明した、と大々的に報道されたことにより、一気に世間一般の支持を得たが、あたかも年輪年代法が畿内説の最大の根拠との理解が世間一般に浸透することになった。どちらも、センセーショナルな報道により一気に世間一般の支持を得た、という点に類似性が認められる。

 .ところが、そうした理解が、逆に単一起源説と畿内説への反論を支える根拠となっている、という点にも類似性が認められる。イヴ仮説の欠陥を指摘すれば単一起源説は根拠を失い、同様に、年輪年代法の不備(と言ってよいものか、疑問もあるが)を指摘すれば畿内説は根拠を失う、との理解も生じたのである。
 確かに、イヴ仮説にも年輪年代法にも不備はある。イヴ仮説は、現在では基本的に間違いだったことが明らかとなっている。レベッカ=キャン氏らの用いたソフトと同じものを用いても、他の多数の地域に起源を求めることが可能であるとの反論がなされたのである。その他にも、分析対象者の選定に疑問があることも指摘された。また年輪年代法については、木の伐採年を示すものではあっても、直ちに遺跡の年代を示すものではない、との反論がなされ、その反論自体は妥当なものと言えよう。

 しかし、単一起源説も畿内説も、イヴ仮説や年輪年代法の成果が大々的に報道される以前に着実な証拠が積み重ねられており、イヴ仮説も年輪年代法も、両説の補強となる証拠にすぎなかったのである。
 単一起源説の場合、人骨の発掘が進み、ネアンデルタール人と解剖学的現代人との5万年以上の共存が明らかになるなど、世界各地で「原人」が「旧人」段階を経て「新人」へと「進化」したとする多地域進化説に不利な発見が相次いだことにより、説得力を有するようになっていた。また、イヴ仮説の誤りが明らかになった後も、分子遺伝学の研究は進められ、その結果は、ほとんどすべてと言ってよいほど、単一起源説を示唆するものである。

 畿内説も、土器編年の研究が緻密になっていき、次第に説得力を増していったのである。畿内説の根拠を地道に補強していったのは、九州の考古学者の年代観の進展だった。九州の考古学者は、九州の土器編年の研究を進め、実年代とのすり合わせを進めていったのだが、その年代観では九州説はありえない、と主張したのである。意外なことだが、昔から九州の考古学者で九州説の人は少ない。
 九州説の考古学的根拠となっていたのは、むしろ近畿の考古学者の年代観だった。その年代観は、応神陵と仁徳陵をそのまま事実として認める歴史観に依拠したところがあった。応神陵と仁徳陵とに応神と仁徳が葬られているとすれば、その築造年代は400年前後となるだろう(実は、応神陵と仁徳陵は、当初の推測とは異なり、中期古墳の中では必ずしも早期のものではないことなどが判明し、これも年代観の修正の一因となった)、という前提に基づいて、年代観が提示されていたのである。
 さらに、前期古墳の中には古代の実在と考えられる天皇(大王)の陵墓となっているものもあり、そうした天皇の中でも最も古い時期に実在したと考えられる崇神は300年頃の天皇と考えられるから、古墳時代の始まりも300年頃だろう、とも推測された。要するに、『日本書紀』に依拠したところも多分にあったる年代観だったのである(もちろん、重要な根拠は他にも色々とあったわけで、『日本書紀』だけに依拠したのではないが)。
 こうした畿内の考古学者の年代観に対して、九州の考古学者は随分と前から異議を唱えていて、その後の研究の進展により、九州の考古学者の年代観に妥当性が認められるようになり、畿内の年代観とのすり合わせが行なわれるようになると、九州説を支持する学者はますます少なくなっていった。こうした新たな年代観の補強証拠となったのが年輪年代法だったのである。
 こうした事情を改めて確認すると、九州説論者が畿内説を批判する際に、皇国史観・大和中心史観などと言うのは、見当違いだと思う。九州説を支えていたのは、むしろ多分に『日本書紀』に依拠したところのある年代観だった。そもそも、九州説の発想自体、皇国史観そのものであった。大和朝廷が中国に朝貢して下風に立つことなどありえないから、九州の「女酋」が日本の女王と偽って遣使したのだろう、というのが九州説の出発点であった。この発想がなければ、はたして現在、九州説が畿内説に対峙できる(あくまで世間一般の風潮のことで、研究者の間ではそんなことはないのだが)ような仮説でありえただろうか。せいぜい、沖縄説などと同等の扱いだったのではなかろうか。

 単一起源説も畿内説も、マスコミの報道により認知されたところがあるが、その報道が従来の地道な研究成果をあまり伝えず、新たな研究成果を大々的に伝えるものだったので、あたかも、その新たな研究成果により単一起源説と畿内説が決定的になった、との誤解が世間一般に浸透することになったように思う。きちんと地道な研究成果を伝えれば、単一起源説も畿内説も、世間一般でも圧倒的な支持が得られるようになるのではなかろうか。

 

 

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