石高と人口
現在でも、過去の日本においては石高と人口はほぼ一致していた、との見解を書籍やネット上でよく見かけるが、これには確実な根拠があるわけではない。
この説を提唱したのは歴史家の吉田東伍で、1910年のことである。吉田は、1600年頃の総人口を、太閤検地の総石高(1850万石)に基づいて1800万人と推測したのである。これは、一年間に一人が生きていくには米一石を必要とする、という経験から推測したもので、当時、米の生産量と人口がほぼ一致(5000万石・人)していたため、広く浸透することとなった(鬼頭宏『文明としての江戸システム』)。
だが、上記推測にはいくつかの問題点がある。まず、「一年間に一人が生きていくには米一石を必要とする」という経験則にしても、けっきょくは米以外の食糧資源との兼ね合いで決定されることなので、根拠のある説たりえない。
次に、日本史上たしかに、米の生産量と人口がほぼ一致している時期があり、それは19世紀末から20世紀初頭にかけてのことだったのだが、このような時期はむしろ例外的というべきで、1870年代には、米の生産量が2500万石程度だったのに対して、人口は3300〜3400万人だった。また、19世紀末以降には米の輸入もあって、国内の米生産量を総消費量が上回っていることも、人口と米生産量の関係を推測するさいには考慮に入れなければならないだろう。
江戸時代についても、明治初期の例から推測すると、後期において、米の生産量2000〜2300万石、人口は3100〜3200万人といったところで、とても一石=一人という関係は成立しない。また、享保年間に大開墾があったとの説を受け入れるなら、1710年頃には、米の生産量1500〜1800万石程度にたいして、人口は3000万人くらいだったのだろう。
根本的な問題としては、石高とはそもそも土地の収益高のことであり、もちろん、石高において米の生産量はたいへん重要な地位を占めてはいるが、米の生産量を意味するものではない、ということが挙げられよう。
また、太閤検地以降の公的な石高は生産高と認識されていた時期もあったが、現在では、年貢や諸役の負担量を前提とした基準高という理解になっている。安易なたとえかもしれないが、石高とは課税対象収入と理解すべきではなかろうか。
そうすると、公的な石高はじっさいの経済規模と一致しなくなるのであり、石高と人口が一致するという場合の石高とは、公的な石高なのか、それとも公儀への届出とは異なる内高(じっさいに各大名が把握している石高)なのか、あるいは、じっさいの経済規模を示すGDPに近い性質としての石高を推測して用いるのか、といった問題が生じる。
このような問題を解決せずに、石高と人口はほぼ一致するという説を受け入れることはできないだろう。じっさい、1600年頃の推定人口は石高の数値の2/3程度である1200万人という説も提示され、一時は有力だった。もっとも最近では、それでは江戸時代前半の人口増加が不自然だというので、1500〜1600万人程度との説が有力である。