織田氏と兵農分離について

 

 織田氏がいちはやく兵農分離を進展させたことが織田氏躍進の要因である、との見解が未だに巷間には根強いが、私はかねてよりこの見解に疑問を抱き、各所においてたびたび批判してきた。
 学界においては、さすがに一部の論者のいうような「兵農分離という先進的な政策こそ信長成功の一因」といった評価はもうほとんどないといってよいようで、最新の研究成果を一般向けに紹介している吉川弘文館の『日本の時代史』シリーズの第13巻、『天下統一と朝鮮侵略』所収の池亨氏の巻頭論文においても、織田氏の兵農分離について、
これらの点は戦国大名の政策と共通するものであり、国替や安土城下町への家臣集住という事実から、兵農分離を体制的に促進したという評価を導き出すことはできないのである(P42−43)との評価がなされている。
 そこで今回は、奥野高廣『増訂織田信長文書の研究』(吉川弘文館1994年)下巻の967号(『信長公記』に記載のある「条々写」)を引用しつつ、この問題について少し雑感をのべることとする。
 967号は、天正10(1582)年2月に織田氏が武田氏領国に攻め込むにあたってのものである。天正10年2月といえば、織田政権末期のことであり、織田政権の兵農分離が最終的にはどの程度進展したのか、また信長は最終的に兵農分離についてどのような見通しをもっていたのか、という点について何らかの手がかりになるのではないか、と思い引用したしだいである。

ニ月九日、信長信濃国ニ至而可被成御動座付て、
   条々 御書出
一、信長出馬に付てハ、大和人数出張の儀、筒井召列可罷立之条、内々其用意可然候、但高野手寄之輩少相残、吉野口可警護之旨、可申付之事、
一、河内連判、烏帽子形・高野・雑賀表へ宛置之事、
一、泉州一国、紀州へおしむけ候事、
一、三好山城守、四国へ可出陣之事、
一、摂津国、父勝三郎留守居候て、両人子供人数にて可出陣事、
一、中川瀬兵衛尉、可出陣事、
一、多田、可出陣事、
一、上山城衆、出陣之用意無由断仕之事、
一、藤吉郎も一円中国へ宛置事、
一、永岡兵部大輔之儀、与一郎兄弟・一色五郎罷立、父彼国に可警固事、
一、維任日向守可出陣用意事、
右遠陣之儀候条、人数すくなく召連、在陣中兵糧つゝき候様にあてかい簡要候、但、人数多く候様に戒力次第、可抽粉骨候者也、

ここでは、織田政権下の諸将にたいして、羽柴秀吉は中国へ、三好康長は四国へといったように、当面の方針が示されているが、主眼は、いうまでなく武田氏領国への遠征である。
 ここで注目したいのは、最後の、
右遠陣之儀候条、人数すくなく召連、在陣中兵糧つゝき候様にあてかい簡要候、但、人数多く候様に戒力次第、可抽粉骨候者也、との箇所である。
 遠征となるので、兵糧が不足しないように少人数で出陣せよ、ただし、兵糧が不足しない範囲で各自努力し、できるだけ多く動員せよ、というわけである。
 信長は、動員を命ずるさいして、具体的な数字を示すことはなく、努力してできるだけ多く動員せよ、といった言い回しを使う傾向にあるようだ(大名権力のレベルで具体的な軍役量が定められていないこととあわせて、織田氏の軍制面での遅れといえよう)。
 たとえば、『増訂織田信長文書の研究』上巻233号がそうである。これは、元亀元(1570)年6月の北近江への出陣(最終的には浅井・朝倉氏との姉川の戦いとなる)にさいして美濃の遠藤氏に宛てたもので、冒頭において、
但、尚以人数之事、分在よりも一廉奔走簡要候、とあり、さらに、人数之事、不撰老若於出陣者、とある。

最晩年においても、信長のこの傾向に変わりはなかったようである。遠征で兵糧確保に不安があるから少人数にせよということは、逆に、兵糧確保の容易な近場では大規模な動員もありうる、ということを示唆していると思われる。
 織田政権末期において近場(近江=安土や美濃=岐阜からみてということだが)での大規模な軍事行動などありえるのか、という疑問はあろうが、当時は在地に膨大な武力が蓄えられていて、これが諸一揆の力の源泉となっていたのであり、その武力の蜂起の可能性は権力者にとって大問題だったし、紀伊のように織田政権に敵対的な勢力の少なくない地域もあったのである。じっさい、本能寺の変後には織田領国内の各地で一揆が蜂起しているし、織田政権より強力な豊臣政権になっても、一揆の蜂起はおきている。
 このような情勢を考慮すると、いかに織田氏が諸大名を圧倒していたとしても、信長が以前からの大量動員体制を依然として維持し続けようとしたのも仕方のないところであり、信長は兵農分離=軍役対象者の縮小を意図的に進展させようとしなかった、との評価が妥当なところであろう。

 

 

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