朝、予定通りХАБАРОВСК(ハバロフスク)に到着。ここでは、市内観光、特に日本人墓地の参拝だ。日本人墓地は村のはずれの小さな淋しい墓地だった。当時、捕虜として連れて来られてこの地で無念の最期を迎えられた旧日本兵の方々に心からお悔やみ申し上げた。
到着した日の夜、宿泊したホテルのホールで結婚披露パーティーが行われていた。ロシア(РОСИЯ)では居合わせた人が誰でもそのパーティーに参加しても良いとのことなので、我々も加わり、ロシア風披露宴に出席させてもらった。特に会費などを取らないので、無料で踊ったり写真を撮ったりして楽しんだ。勿論、新郎新婦へお祝いの言葉をロシア語でかけた。
日本人墓地でロシア語の | 初めてのロシア人との |
上手な高校生と記念写真 | 記念撮影 |
結婚披露宴に飛び入り参加 |
(左下) |
さすが、ハバロフスクは寒い、なにしろ、昼間太陽が出ていても−35℃だ。観光バスから降りて散歩しようにも、5分と外に居られない。顔が強張って、笑っているつもりでも顔の皮が硬くて笑顔にならないのだ。話をしようにも言葉にならないのだ。声は、シェーとかシューという音しか出ない。そこで分ったのは、ロシア語の発音にシェーとかシューという音が多いのはこのためだと思った。英語にはない発音なので覚えるのが大変な程である。青森県津軽の言葉も共通していることを発見した。
昔、「ハバロフスクで、橋の上から立ちションすると橋から川までのつららが出来る」との話を子供ながらに聞いたが、何か妙な真実感があった。寒すぎて、寒いというより痛いという感じがする。これは、日本では経験出来ない寒さだった。だから、ロシア人は厚い毛皮の帽子をかぶるのだということが実感出来、納得もできた。我々日本人は毛皮の帽子を持っていないので、スキー用の毛糸の帽子をかぶった。でも、スーツとコートを着てスキー用の帽子とは「様」にならない。ハパロフスクの街は大変きれいで、街中に電柱が一本も立っていない。もう30年も前の話だからびっくりである。建物の色は黄土色に統一されていて、高さも5〜6階位に揃っているので、実にすっきりしている。
メイン・ストリートの名は「レーニン通り」と言って、ソ連では殆どの街のメインストリートがレーニン通りである。我々が訪問した年は丁度、ロシア革命後50周年ということもあり、レーニン、革命後50周年、共産党をアピールする看板が街中にあふれていた。
我々のツアーは50人位だったろうか。同一のホテルに宿泊できないので、二つのホテルに分散して宿泊した。もう一つのホテルまで徒歩15分である。夕食後、仲間の居るホテルに遊びに行くことになり、ホテルを出ようとすると、ロシア人観光客が「帽子をかぶれ」と言っている。私は「平気、平気」と日本語で言ってホテルを出た。
10分も歩くと何か頭がボーっとしてきた。段々意識も朦朧としてくる。ロシアでは寒さで「脳みそが凍る」という話を来る前に聞いたことがあったので、もしかして「脳みそが凍り始めた」のかと思い、恐怖を感じた。何とかホテルに辿り着き、暖かなロビーで20分位休んでいたら、元に戻った。それから友人(ロシア語が分る学生)に会ってその話をしたら、「本当に危なかったですよ!」と言われ、始めて自分の無謀(無帽)さに驚く有様だった。このように、途中で意識が朦朧となると倒れてしまい、人に気づかれなければそのまま凍死してしまうのだそうだ。でもよかった、よかった。
その後にもう一つトラブルが起きた。ホテルのバーでお酒を楽しんだ後、帰ろうとすると、私のコートがないのだ。「盗まれた!」と思った。ホテルの支配人(女性)が来て、何かの間違いだと一生懸命弁解する。しかし、物がない以上盗まれたのだと私は主張した。支配人曰く、「ロシアには泥棒はいない」と言う。私はすかさず、現に泥棒がいるではないか。「ロシアには、泥棒が居ないとは前にも聞いたが、やはりウソだ!」と強く主張した。支配人は「この日本人は笑顔を見せないですね。普通の日本人はにこにこと愛想が良いのに」など矛先を変える。
そこで又、反発、「コートを盗まれて笑っているバカがどこに居る」と、そして、通訳にはそのまま訳せと命じた。彼女は大変当惑していた。
そして、その模範的な優しい女性支配人は「ロシアやロシア人を誤解しないで!」と困惑した顔で付け加えた。
(余録)
ハバロフスクで、2人の病人が出た。男子学生1人、女子学生1人である。二人とも食べ物の好き嫌いがあり、体力が衰弱して風邪でもひいたのだろう。ホテルから、病院に連絡が行き、診断の結果、即、入院ということになった。そして、2日後にモスクワに我々を追いかけてきた。
日本なら「少し休めば大丈夫」というくらいで、本人もそう主張したが、半強制的に入院させられた。但し、入院費、治療費は全て只。「ソ連の地を踏んだ人は何人なりとも医療費が無料」なのだそうだ。中年のおじさんおばさんは「ソ連て、素晴らしいね!」と「共産主義の医療費無料」に感心し、その対応に感激していた。
しかし、私は、やや冷ややかに「また、ソ連得意の洗脳法かな」等と素直でない解釈をした。
因みに、その2人の病人に、私が日本から持ってきた「カップラーメン」を「体力を付けるように」と、1つづつプレゼンとした。その上、その二人は、好き嫌いが激しいのにカップラーメンの用意がなかったので、大変感謝された。
その後も、私は困った人に殆どのカップラーメンを上げてしまった。ロシア経由でイギリスに渡った女性にもお土産として3個差し上げたら、「イギリスのホームステイ先の家族と食べて、おいしいおいしいと喜ばれた」旨の手紙を帰国後にもらった。その後、どうしたか音信はない。
次回は「いよいよ、モスクワへ」です。