連載:私の初めての海外旅行・ソ連  My First Overseas Trip、 USSR

Ver.3.1 2003/09/01
第12回「ЛЕНИНГРАД(レニングラード)にて」

 レニングラードは、ソビエト連邦崩壊後、今はサンクト・ペテルブルグという大昔の地名に戻った。ここは、ソ連の最北端に位置する水都である。
 レニングラードという地名は1917年10月のロシア革命以後、革命を指揮し成功に導いたレーニンの業績を讃えレニングラード(レーニンのグラード=都市)と命名されたものだ。(日本ではレーニンというがЛЕНИН(英:LENIN)レニンである。)
 ここは、1703年にピヨートル大帝が作った戦略的な都市で、ピヨートル大帝と同じ名の聖者ペトロの名に因んでサンクト・ペテルブルグ(聖ペテロのブルグ=都市)と名付けられた。
 元々、沼地であったところを、ロシアの出口として、北辺の民族に対する要塞として、そしてヨーロッパの窓口として計画的に作られた都市である。従って、ネヴァ河を中心に多くの運河があり、橋の数も600と多い。

 レニングラードは開市以来、ロシアの首都であったので、ソ連の中でも文化レベルが最も高く、「レーニンが全て」のソ連の時代でもモスクワとともにロシアの代表的な大都市である。
 この都市は、フランスなどから取り入れたヨーロッパ文化そのものであり、建物はまるでパリにいるようだし、女性もセンスがあり美人ばかり。同じロシアでも、モスクワのように田舎っぽくない。いわゆる洗練されていて実に綺麗だ。エカテリーナ宮殿、エルミタージュ美術館、その各室には、古き良きロシア帝国の遺産の品々が陳列されているのである。
 中でもエルミタージュ美術館は、当時世界第二位と言われていたほどで、スケールといい、コレクションの質・数といい、世界第二位にふさわしいものだった。それに加えて、建物が豪華絢爛、シャンデリアで一杯である。(一昨年(1995)見たフランスのルーブル美術館の比ではない)

 ホテルのバーではよく酒を飲んだ。ホテルのバーはロシア人は入れない外国人だけの社交の場所である。我々日本人にとっても、US$や¥を使える数少ない場所でもある。
 ある時、バーのカウンター内にギターを手にした美人がいて、酒を飲んでいると、にこにこしながら少しづつ綺麗な英語で話しかけてくる。こちらも気をよくしていると徐々に商談に入ってくる。それまで、そのての人とは思っていなかったので驚いた。「そうか、ソ連にも商売の女性がいるんだ!」と大きな驚きと共に、大変な衝撃を受けた。

 商売といえば、物買いが沢山いた。モスクワでもこのレニングラードでも街を歩いているときちっとした身なりの紳士が英語で話しかけてくる。先ずは「日本人か?」次は「セイコー持っているか?」と聞いてくる。最初、「セイコー」が時計とは思わなかったがすぐ理解できた。セイコーは200ルーブル(8万円、今の金で約80万円)で売れる。時計やカメラを執拗に売ってくれとせがまれたが、全て食べてしまわないといけないので売るのをやめた。ソ連で儲けた金は日本に持ち帰れないので食べてしまうほかないのだ。売買が禁止されているので、街の中では絶対商談はしない。ホテルと部屋番号を聞いて後からやってきて、旅行客の部屋で商談が始まる。
 そして、女性の衣類、特に下着類を欲しがる。ストッキングは1ダース持っていったので飲食の足しになった。女性の下着類を大変欲しがり持ってないかという。「男だから無い」というと「ツアーで一緒の女性が持っているではないか」という。勿論、身に着けたものでも高く売れるのだからソ連の物資の乏しさが図り知れるというものだ。
 一緒に行った学生さん達は質屋で買った「セイコー」を幾つも持っていたので豪華な飲食を楽しんでいた。

次回は「杜の都КИЕВ(キエフ)」です。


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