連載:私の初めての海外旅行・ソ連  My First Overseas Trip、 USSR

Ver.1.1 1998/10/20
Ver.2.1 2002/02/02
Ver.3.1 2003/09/01
第19回「最後の関門・横浜税関」

 ソ連(СССР:エス・エス・エス・エル,英語のUSSR)の税関では当初ソ連に入国する時と同じように厳しくチェックされ、入国時の持ち金と出国時の持ち金をチェックされた。予め知らされていたので、リーズナブルな持ち金(残金)で帰国した。

 ソ連では日本製品、特に時計・カメラが高額で、旅行者からヤミで売れるため出国したときより金持ちになってしまうことがある。そのような違法な販売行為がなったかをチェックしているのだ。
 ソ連の税関は特に貴金属の持ち出しを厳しくチェックしていたので、必ず「貴金属を持っているか?」と「英語」で聞いてくる。私は予め旅行社から聞かされていた通り「No!」と答えると「Is it true?」としつこく聞き返す。こちらも強い口調で「True!」と言い返すと、彼女(女性官吏)はニコッと笑って「O.K.」と言って通関させてくれた。
 行きと同じように、「ナホトカ号」による数日の船の旅が続く。船はナホトカ港を出ると、津軽海峡、三陸沖、犬吠埼沖を通り、房総半島を廻って、東京湾に入っていく。そして、ようやく出国した時のあの横浜港が見えてきた。バンザーイ。

 横浜港に到着して、日本の地を踏んで初めて「日本に無事帰れた」と思った。なにしろその当時のソ連は「生きて帰れるか分からない」怖い国だったのだから。
 実際に、私の帰国2ヶ月後に私が行ったあの「ソ連行き航路」で女子大生が行方不明になった事件があった。事件に巻き込まれて太平洋に捨てられたのではないかなどと噂があったが、日本の警察が立ち入り出来ず、勿論、迷宮入りとなってしまった。

 ところで、日本の税関では、酒類の持ち込みが厳しく制限されていて、一人3本までしか持ち込み出来ない。この点は今でも同じであるが、横浜税関では大変厳しくそれを二重にチェックしていた。
 通関後、ツアーは解散したのだが、土産などで手荷物が多いのでタクシーで帰ることになり、私が住んでいた横浜市・日吉の方向に住む女子大生と一緒に同乗することになった。横浜港の出口には検問所があり(今の成田空港入口の検問所のように)タクシーのトランクを開けさせ、再度、酒のボトル数をチェックするのだ。
 特に問題なくチェックを終えて帰宅することができた。

 何はともあれ、帰国後の仲間との再会を約して長い「ロシア冬の旅」は無事終了した。
終り。

(註)「ロシア冬の旅」は日ソ旅行社の旅行パックの名称。

 <長編の旅行記、ご愛読ありがとうございました。>


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