妄想夜語り3.5
降水確率50%。
傘を持つか否か、運命の選択肢。
賭けに成功すれば不要な荷物から解放され、失敗すれば惨めな結果に終わる。
傘1本を保険とするか否かで、この賭けのレートが変化する。
ともあれ、ここに、この賭けに失敗した少女が1名。
下校時に、運悪く雨に遭遇。
傘を持たない彼女は、成す術も無く、校舎に足止めを食らっていた。
空は、彼女の不運を嘲笑うように、冷たい雨を降らせている。
少女は、ただ呆然と、同じ名を持つ意地悪な『それ』を眺めていた。
静寂。雨の音だけが周囲を支配していた。
シエルは、当初は自分のアンラッキーさに苦笑いをしていたのだが、
雨宿りが続く内、その表情が曇った。
(そう…あの日も、こんな天気だった)
シエルの脳裏に、8年前―シエルがエレイシアと呼ばれていた頃―の記憶がフラッシュバックする。
8年前、冷たい雨の降る日。
私の中に寄生する何かが、どうする事もできないほど大きくなって、
気づいた時には、お父さんもお母さんも、無残な塊になっていた。
止めて!私じゃない!!私じゃない誰かが!!ウソ!!これは夢!!悪夢!!
でも、私の中の私じゃない私は、止めてくれない。
次の瞬間には、近所のおじさんおばさん達も、お友達も、みんなバラバラになっていた。
元が誰なのか分からなくなった肉塊、血まみれになった私の手。
そう、夢なんかじゃなくて、全部現実。全て私の仕業。
叫んでも泣き喚いても、何も変わりはしない。
目に入る血塗れの両手が、私の現実拒否を否定する。
私は表に出た。
冷たい雨が、私の体を情け容赦無く打つ。
構わない。それで、血が洗い流されるのなら。私の行為が流されるのなら。
でも、罪は否定されない。洗い流される事はない。
打ちしきる雨が、私を断罪している。
雨が全身を濡らす。
冷たい。全身の感覚が、次第に麻痺する。
でも仕方が無い。私みたいな殺人鬼に、この罪深い私に、
人としての感覚なんて、もう無いのだから。
「……ぱ…い」
「エ…ル……先輩」
「ねぇ、シエル先輩ってば!」
シエルの回想が、何者かの声によって強制遮断された。
その声には聞き覚えがある。シエルは、慌てて声の主の方へ振り向く。
その向こうには、彼女が一番知ってる、遠野志貴の姿があった。
「……遠…野…くん」
シエルは、言葉を喪うほどに驚いていた。
ま、それもその筈。まさかこんな時に、一番会いたい人に会えるとは、
夢想だにしてなかっただろうから。
「それより先輩、こんな雨に何やってるんだよ?!濡れてるじゃないか!」
「えっ?!あっ…」
志貴の言葉に、シエルは我に返る。
気づいた時には、雨の中、校舎から外に歩き出していた。
「ほら、傘に入って」
「えっ…で、でも」
志貴の突然の提案に、シエルは思わず解答を渋る。
「デモもクーデターも無いの!濡れたままじゃ、先輩が風邪引いちゃうじゃないか。ほらっ」
「きゃっ!」
志貴は、渋るシエルの肩を、強引に傘の中に引き込んだ。
「ほら、行くよ。先輩」
先輩の肩を押し、促す志貴。
こうして思わぬ展開で、志貴との相合傘モードに突入し、
家路の途につく事になったシエルであった。
既に空は真っ暗。
雨は更に強く、地を、傘を、打ちつけている。
1つ傘の下の志貴とシエル。互いに何も言い出せずに、ひたすら無言で歩く。
所詮傘1つでは、2人が雨を免れるのは、少々無理がある。
志貴は、シエルが濡れないように、傘をシエル寄りに向ける。
その結果、はみ出した肩に雨水が容赦無く打ちつけるが、一向に意に介さない志貴。
自身の一番大事な、一番大好きな人の為ならば、
この程度の献身は、志貴にとっては、むしろ名誉でさえある。
水滴のついた眼鏡越しに見る街の灯は、万華鏡のように、幻想的に輝いていた。
「先輩?」
「…はい」
沈黙に耐えられなくなって、志貴が口を開いた。
「先輩さ、どうして、あんな雨の中に呆然とつっ立ってたの?」
「あ…フフフ、私とした事が、ぼ〜っとしちゃいました☆」
志貴の問いに、シエルは笑顔で答えた。
が、シエルとしては、本当の事は言えない。
今更、自身の過去の罪を嘆くのは、
命懸けで自身を幸せにしてくれる志貴に対して、あまりにも申し訳無い。
それで、突貫工事で笑顔を作って、ウソをついたシエルだった。
「…嘘だね」
即決で否定した志貴。
ウソを看破されたシエルは、思わず、志貴から目をそむけた。
「ずるいよ、先輩…」
シエルの逃げる視線の方へ、志貴は顔を向ける。
「こんな時でも、俺にウソつくもんなぁ」
志貴は、シエルの浮き足立った目を、ハッキリと見つめた。
「…言えない?なら、当ててみようか」
一刹那の沈黙。
雨音だけが静かに立っている。
「こんな雨の日に…先輩はロアに乗っ取られたんじゃないかな?」
「!!!!」
図星を衝かれ、顔面蒼白となるシエル。
志貴は構わずに、話を続ける。
「先輩の大事な人達を、先輩を乗っ取ったロアの奴が殺してしまった。
その事を思い出してしまって、堪らなくなって、
思わず雨の中に飛び出してしまった…そうでしょ?」
「………」
概要を当てられてしまったシエルに、言葉は無し。
「図星、だったようだね。だって、さっきの先輩、この前俺を殺そうとした時と、同じ顔してた」
「……」
シエルは、下を向いて沈黙するしかなかった。
志貴は、目を伏せて一息おき、また口を開く。
「あのね、先輩…」
「わ、わかってます」
志貴の言葉をシエルが遮った。
「分かってるんです…遠野くんが命を賭けて、私を幸せにしてくれてる事も、
私の罪を肩代わりしてくれる事も、全部…分かってるんです。
…ばかですね、私。折角幸せになれたのに、この後に及んで、まだ過去にを引きずるなんて」
下を向いたまま、シエルは、雨音にかき消されるような声で呟いた。
「俺の言いたい事は、暗誦できるぐらい覚えてるだろうから、俺からは何も言わない。
今度は、先輩の体に覚えてもらう」
そう言うと志貴は、シエルの肩を、ぐいっ!と自身の胸に引き寄せた。
志貴の思いがけない行動に、シエルは驚く。
トクン……トクン……
シエルの耳に、志貴の鼓動が聞こえる。
シエルの冷え切った体に、志貴の体温が伝わる。
シエルは、一番大事な人の、無言のメッセージを受けとめた。
心地よい。
穏やかな鼓動も、暖かな温もりも、かすかに漏れる吐息も。
シエルが、罪の呵責に足掻いた末に、やっと掴んだ幸福が、そこに集約されていた。
シエルは、ゆっくりと目を閉じ、一番大事な人にその身を委ねた。
志貴も、シエルの求めに、堅い抱擁で答える。
両者の鼓動は、やがて一つに溶けていった。
「……ん…」
誰言う事無く、唇が重なった。
熱い吐息と、想いが唇から全身に伝わる。
志貴の抱擁に力が入る。
雨音は聞こえない。
無限に涌き出る熱い感情を、感じ、そして貪った。
熱い息とともに、唇が離れた。
どれほど時間が過ぎたのだろうか。
果てなく続くかと思えた求愛に、顔を上気させ、互いの顔をしばし見つめ合う。
「あの…」
「ん、先輩?」
暫しの沈黙の後、シエルが口を開いた。
「お願いです。今夜は…帰らないで下さい」
シエルは、顔を真っ赤にしつつ、微かな声で言った。
「一緒に…居て欲しい…です。その…さっきの悪夢を…忘れさせて欲しいんです。
………今日は……その、…大丈夫……な…日です……から……
私が、志貴くん無しで生きていけないぐらい………愛し……て…下さ…い…」
シエルは、恥ずかしさに懸命に耐えながら、雨音にかき消されそうな小声で、志貴に懇願する。
「OK、わかった」
口調は軽いが、表情は極めて真剣に、志貴は求愛を了承した。
「じゃ、帰ろうか」
「はい」
志貴は、シエルが濡れないように傘を持ち直し、再び家路についた。
「お腹空いたね」
「カレーなら、いっぱいありますよ」
「よ〜し、それじゃ美味しいカレーを食べて、後で、もっと美味しいご馳走も食べちゃうか♪」
「………ばか(赤面)」
水滴のついた眼鏡越しに見る街の灯は、万華鏡のように、幻想的に輝いていた。
だが、傍らにはもっと綺麗で、この世で一番大事な笑顔が輝いている。