…いや〜シビれましたな。ビリビリ来ました。少なくともオレは脳が震えた! とは言え、絵と字だけでこの迫力を説明するという試みには、たぶん相当な無理があったと言わざるを得まい。しかしですよ、ふんどし一丁の土方の殴り合い(@サウナ)が堂々たるコーラスを呼び、そこにレーニンの三段ズームが赤の広場でドンドンドンみたいな、そんな発狂したオープニングがこの2000年に成立しうるだろうか?残念ながら答えはノーだ。 ここで話を最初の、なんで現状のシュワルツェネッガーはもうひとつダメなのかという話に戻そう。なんでダメなのか。それはシュワルツェネッガーだけのせいではない。これは断言しておくが、いつの世にも金が金であり、アントニオ猪木がアントニオ猪木でしかないように、結局シュワルツェネッガーもシュワルツェネッガーでしかない。 変わっていくのは時代であって、シュワルツェネッガーは変わらないのだ。 シュワルツェネッガーは素材でしかない。 気まぐれに変わっていく時代という皿に盛り付けられる素材。 たぶん、人々の心に残っていることもそうはないはずの『レッドブル』という十数年前の駄作(だよ、シュワルツェネッガーの映画は。いつでも!)のクソバカなオープニングが、いま現在もはや成立し得ないのは時代がそんなものを求めていないからでしかないのだ。いや、ほんの十数年前にも求められてはなかったかもしれんが…自信なくなってきました。 シュワルツェネッガーが変わらないというのは、少し間違っているかもしれない。なぜならシュワルツェネッガーもまた、そんなふうに変わっていく時代になんとか自分を合わせようと必死だからだ。 女房を大事にしてみたり。人殺しを辞めてみたり。 子供を大事にしてみたり。子供を産んでみたり。 もう、呑気にサウナで土方と殴り合ってばかりもいられないのだ。変わりゆく時代に合わせて、自分を変えようと必死なシュワルツェネッガー。ここ数年の彼からは、そんな必死な姿が見えてしまう。でもそれは無駄な抵抗でしかないのだ。そこに気付かないところに、今日のシュワルツェネッガーのダメさ、ヌルさがあるのだ。だから、シュワルツェネッガーは変わらない、と言うよりもシュワルツェネッガーは変わってはならない、と言うべきだろう。 「いまさらシュワルツェネッガーでもねえだろう…」と言われてしまえばもう黙るしかないのだが、だからこそシュワルツェネッガーには時代に媚びることを辞めてほしいのだ。媚びれば媚びるほどに、シュワルツェネッガーからは輝きが失われていく。 ふんどし一丁で、土方とサウナで殴り合っていたころの輝きが。 何だか話があらぬ方向にシフトしてきたが、とにかくシュワルツェネッガーには、その辺に関して猛省を促したいのである。 具体的には ●あんまり喋らない ●笑わない ●女子供に優しくしない、というかそれ以前に女子供と絡まない ●衣装は極力薄手で ●5分に1人殺すこと といったところを遵守していただきたいものだ。 そういうわけで今後の奮起に期待する!以上! あと、シュワちゃんて呼ぶの禁止! バカ100連発本部にもどる やつらか俺たちかトップにもどる |