To Live and Die in Tokyo : Part 2 of 3
断絶
4年ほど前の話。大雨が降る中、警視庁まで使い走りに出された。
何だったか警察関係の資料を取ってくるとか何とか、まァ他愛のない用事だった。しかし世の中には、オレのそんなしょっぱい任務がまるで恥ずかしくなるような重大案件を携えて警視庁の本丸を直撃する者もいる。
狂ったような土砂降りの午後何時だったか忘れたが、桜田門は警視庁の1階ロビーでオレはとにかく自分の順番を待っていたのだが。
表の道路からタイヤのスリップする音が聞こえたりする中、1人の男が入ってきた。
60代も後半に差し掛かったとおぼしきその男は両手に汚い紙袋をぶら下げており、袋の中には得体の知れない刷り物がこれでもかというぐらい詰め込まれている。外は大雨だからそれら印刷物は当然のごとくビッショビショに濡れていたのだが、湿気で眼鏡を曇らせまくったそのオッサンがそれを気にする様子は全くなかった。
ロビーの空気が明らかに変わる中、推定67歳のオッサンは受付のカウンターに両手の紙袋をドーンと置いた。水しぶきが受付嬢の顔面を直撃するのとほぼ同時に、男は「天皇陛下に接見しに参りました!」と怒鳴った。その声のデカさに、オレの隣に腰かけていたババアがひっくり返って椅子から落ちた。当然ながら主旨が飲みこめない受付嬢がもう一度用件を問い直すとオッサンは「だから天皇陛下に会いに来たと言うておるんです!」と絶叫したのである。
「天皇陛下に会いに来たんですよ。私は!」よだれをバーッと撒き散らしながら咆えるオッサンの勢いは買うが、何せ我々がいたのは警視庁であったから、彼の絶叫も全く明後日の方向を向いてのフルスイングでしかない。だがオッサンにしてみればそんなことはどうでもよかった。オッサンは身勝手な怒りにその体をぶるぶると震わせている。なぜこの役人、いや役人とも呼べない国家の手先は自分の崇高な任務の邪魔立てをするのか。あまりの怒りにオッサンの鼻腔からは鼻水がにじんでいる。そんな彼の姿はまァ、見ていて相当鬱陶しかった。どうやら受付嬢にしてもそんな気持ちは同じだったらしく、彼女がためらいつつも冷静に「では…少々お待ち下さい」と告げたその瞬間。事件は起こった。「待てんというておるのだ!」バーンとオッサンがカウンターに拳を叩きつける。すると同時にカウンター斜め後ろのドアが開き、その向こうで待機していた警官の群れが一斉にロビーになだれ込み、オッサンに向かって次々とフライング・ボディプレスを敢行したのである。
20人からの警官がのしかかっただろうか。一瞬のうちに無力化されたオッサンは盛大に鼻血を流しながら、受付横の待合室に連行されていった。オレも本来の用件を完全に忘れて、警官たちのあとをふらふらとついて行く。オッサンは待合室のいちばん奥に、2人の警官に脇を固められてちんまりと座らされていた。残りの警官たちが首や肩をぼきぼきと鳴らしながら、ぞろぞろと待合室を出て行った。「で、どうしたの、お父さん今日は」角刈りの警官がティッシュを手渡しながら聞いた。「いえ、私は」オッサンはだらだら流れる鼻血をいい加減に拭き、それから何やらわけのわからないことを一方的にがなりたてた。
16年前、とある新聞販売店をクビになったこと。
未婚であること。
今日はここまで自転車で来たこと。
税金について。
今日は雨が降っているということ。
そうしたあれこれに対する訴えをとにかく天皇陛下に聞いて頂きたいッ。オッサンの主張は概ね、そんなところであった。彼はそれから時折立ち上がり、「みなはんも聞いてくだはいッ!」と鼻詰まり声で絶叫しては両脇を警官に引っ張られ、無理矢理座らされていた。
聞いてくだはいッと言われるまでもなく、オレは「サンデー毎日」を読んでいるふりをして、オッサンの発する一言一句に神経を傾けた。でも何が言いたいのか全然判らなかった。そんな演説が約20分は続いただろうか。オレはだんだんイライラしてきた。それはオレだけではなく、警官も、待合室でオッサンのヨタ話に耳を傾ける聴衆も同じ苛立ちを感じていたようだった。いわば待合室に集った15人ほどの人間を、オッサンは敵に回していた。それほどに待合室の空気は張りつめていたのだ。
外は大雨が降っているというのに、どこからか火薬の匂いがした。と書けば、オレがその時に座っていた待合室の緊張感が伝わるだろうか。しかしその場の空気が読めないオッサンは相変わらず、誰も聞いていない妄言を吐きつづけている。
先日、献血に行ったら断られた。
農業に従事したことがある。
今日は電車に乗ったら結構すぐ着きました。
毎日、豆を食べている。
それで天皇陛下にはいつ会えるのか。
オッサンの独演会は一向に終わる気配を見せない。
今にも集団暴行が起こりそうな待合室を見渡してそろそろ潮時と判断したのだろう。警官がちらりと時計を見て、「じゃあお父さんね、この辺で」オッサンの腕を掴んで立ち上がらせた。「まだ終わっとらんのですよ!」オッサンは抵抗したが、2人の警官はもう耳を貸さなかった。オッサンはオレたちの目の前をズルズルと連行されていく。彼のサンダルがズルッと脱げて濡れた床に転がったが、誰もそれには気がつかなかった。
「われは湖(うみ)の子 さすらいの」オッサンは引きずられながら、何を思ったか『琵琶湖周航の歌』を歌いだした。「旅にしあれば しみじみと」突如始まったオッサンの唄。決して上手な歌ではなかった。むしろ聞くに堪えないと言い切ってしまえばそれまでだった。しかしその歌には不思議と聞くものの心を揺り動かす何かがあった。
「志賀の都よ いざさらば」警官2人の制止を振り切り、オッサンは泣きながら絶唱した。あうあうと痙攣する唇の端からは泡が吹き出していた。
期せずして拍手が起こった。ふと見れば子供連れのオバハンが目に涙を溜めて手を叩いていた。眼鏡をかけたサラリーマンや猫背のババアもそれに続く。
素性も知れないオッサンが一生懸命歌っただけで拍手喝采する。そんなメンタリティがどうにも嫌いだったから、オレは拍手もせずにサンデー毎日を読みつづけた。それでもオレが、心の中である種の感銘を受けていたことも事実だった。追い詰められたオッサンがふと歌った『琵琶湖周航の歌』。遠い昔、この男はきっと滋賀県から出てきて人知れぬ苦労を重ねてきたのだ。戦争。貧困。差別。あるいはオレには想像もできない労苦。それを考えれば、彼の奇行とて少しは許されるだろう。オレも含めて待合室に集った人間は、それぞれの狭量さを恥じた。「お父さん…」おそらく同じことを考えていたはずの警官が聞いた。「何、滋賀から来たの」「いや、栃木」オッサンは事もなげに答えた。2秒後、ついに勝手口から叩き出されるオッサンの姿があった。オレは用事を手早く済ませて、相変わらず大雨が降る中を会社に帰った。
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