撮影日 2017年8月23日

撮影場所:泉昌寺境内(旧鳳来寺高等学校校舎)新城市大海字寺ノ前11・・・8月に咲く百日紅は見事らしい。

閉校時の卒業生数 21名(最盛期には生徒数700名を数えたが、過疎化、少子化には如何とも致し難し。)

所在地 新城市門谷宮下35

校歴   1935年(昭和10年)鳳来寺立鳳来寺女子高等学園として開校。1944(昭和19年)愛知県立鳳来寺女子農学校と改称。

     1948年(昭和23年)愛知県立鳳来寺高等学校、新城分校となる。

     1949年(昭和24年)鳳来寺高等学校として独立。2009年生徒募集停止。 

     2011年(平成23年3月31日)閉校。76年の歴史の幕を閉じた。新城高等学校に引き継がれる。

 76年の歴史で送り出した生徒数は約、8000名に及ぶ。     

中日新聞に泉昌寺「大海の放下」の記事が地方版に掲載された。その写真に木造校舎らしき建物が写っていた。早速、泉昌寺へ電話し、寺に隣接する校舎らしき建物は、どちらの

学校ですかと尋ねると「鳳来寺高校の校舎」との返事。しかし、鳳来寺高校の所在地は、新城市門谷である。そこで、新城市教育委員会に電話し確認したところ、鳳来寺高校は

造りが鉄筋であり、所在地も相違し高校ではないとの回答。再度住職に確認するのも如何と思い、現場を訪ねることにした。新東名新城インターを降りて約10分、泉昌寺に到着。

門前の駐車場に車を入れ、本堂に向かうも本堂はロックされている。扉越しにお参りする。お寺の正面右側に写真に写っていた校舎があった。一応、数枚の写真を撮り終え門前に戻った

ところ、門前近くに車が止っており車中に人影あり声を掛けた「失礼ですが、この建物のことで、お尋ねしていいですか?」「どうぞ」「建物は学校では?」「いや、お寺の建物だよ」

どうみても学校との思いが打ち消された。無駄かもしれないとの思いもあったが、校舎の裏側の写真を撮るため、お礼を言ってその場を離れた。裏側の写真を撮り終え戻ったところ、

車の影はなかった。どう見ても校舎である。今度は、門前の民家の呼びベルを押した。「ハーイ」と声がして、男の方がでてこられた「お休みの所恐縮ですが、前の建物のことでと」

声を掛けた。「鳳来寺高校の校舎です」と。お話しによれば昭和48年、鳳来寺高校が鉄筋に建て替えられることになり、その折、住職が払い下げを申し出で認可され、移築したとの事。

目的は、集落の人々の、祭事、葬儀等に役立てばの事であった由。一部は廃棄されたが、3分の一は残っているよ、もともと女学校であったから、二階には茶室があり、今でも住職の

計らいで茶会を開いている。当時は、バブルの最盛期で大変だったと昔を思い出しながら懐かしそうに語ってくれました。

鳳来寺高校校歌  作詞 丸山薫、  作曲 大村能章

1・光あまねき霊峰の  姿を仰ぐ朝夕に

 音成す川は絶えまなく こころの濁り洗う郷

 希望にこぞる学び舎の 名は鳳来寺 わが母校

2・春は花咲く深山木よ 秋には紅葉彩織りて

 四季うるわしき天然の  芸術の中にはぐくめる

 素朴のいのちすこやかに  ああ励みゆくわが日頃

3・進む時代にさきがけて  築けよ文化実践の

 誓いにはづむわれらなり  使命も雄雄し若鳥が

 苦難の風にはばたきて  いざ拓きなんわがゆくて

作詩家 丸山薫、作曲家 大村能章、共にその道の大家である。鳳来寺のご縁で生まれたコンビですかね。

大村能章は「戦友の歌」(同期の桜)、「麦と兵隊」、「旅笠道中」、「野崎小唄」等の作曲者である。

校歌については、新城高校の先生にお手数を煩わしました。

境内に咲いていた百日紅。




境内の百日紅、最盛期には見事な花をつけるそうです。