Grey Sky


2月中旬。
空はどんよりと暗く、厚い灰色の雲に覆われていた。
立春を迎えたとはいえ、それは暦の上での事。
寒さはまだまだ充分に、街を、人々を凍えさせる。
 
 
首都上空、数百メートルを爆音を響かせてヘリは飛んでゆく。
地上の喧噪を眼下に、悠々と。
朝の通勤で、ある者は満員の電車に揺られ、
またある者はやっと来たバスの乗降に気を取られ、
そしてまたある者は遅刻直前、時計の針とのデッドヒートの駆け足の最中に、
遮る物の地上に比べ遙かに少ない空をゆく機影に気付く者はない。
 
 
幾ら眼下の喧噪を知らぬ気に進んでいるとは言っても、
やはりヘリの機内は、インカム越しでないとまともな会話一つ出来ないほどの騒々しさだ。
しかし、必要事項の確認の終了と同時に、室井は後は一人にしてくれとばかりに
さっさとインカムを耳から外した。
ヘリのエンジンが発している爆音の方が、
今の今まで煩わされていたくだらない話を次から次へと口にする上司の声よりどれだけマシか。
 
 
室井は、このところ訳もなくイライラとしていた。
そんな気持ちが、爆音に慣れ、かえって他の物音の何も聞こえない空間で
ほんの少し紛れたように思えてくる。
この空間に、自分だけが存在しているような・・・・・。
 
 
ふと気付くと、初冬の空は相変わらず雲に覆われ、ついこの間までは耐えきれず、
少しはその姿を雲の影に隠してはくれないものかと願ったはずの陽の光が恋しくさえ思え、
ヘリの窓から見える限りに目を凝らし探してみた。
遙か彼方の高層ビルの隙間へ、空の切れ目から幾すじかの光が伸びている。
何処か、神々しささえ憶えるその光景に目を奪われていたが、
思いがけず室井の目の前を、その中の一本が横切った。
跡を追うように、眼下に凝らす視線。
調度ヘリも旋回を開始した。
 
 
ひょっとしたら何度も声を掛けていたのだろう。
インカムを外したままで、呼ばれていたのにも気付かなかった室井を、
トントンと部下の野中が指で軽く叩く事で注意を促す。
長身を室井の方へ乗りだし、窓越しに下界を指差す。
室井は相変わらずインカムを外したまま、ただ「解った」と口を動かし、大きく何度か頷く動作で
中野の言わんとすることを了解した旨、伝える。
室井の口元と、シッカリと頷く様に、中野も頷き返し下界に目を遣る。
すでにヘリの眼下にはオフィスのビル群の姿は消え、今は色も形も均一的な住宅地の屋根の海が
込みあいながら何処までも何処までも広がっていた。
 
 
屋根屋根の間に、陽の光の一筋が音もなく落ちてゆく。
光の落ちた場所には、僅かな・・・ほんの僅かな陽溜まりが現れる。
登校途中の、ランドセルを背負った小学生達が、その陽溜まりを追って走り寄る。
その様子を眺めているだけで、凍えた自分の心も、僅かではあれ温まる気がしてくる。
上空のヘリに気付いた子供が一人・二人と手を振り始める。
「あそこはきっと、暖かいんだろうな・・・」
室井の呟きは爆音に消し去られ、誰の耳にも届かない。
 
 
午前中、ヘリでの視察を終え、午後からはひたすらデスクワークに忙殺された室井だったが、
以前の現場での仕事とは違い、どんなに忙しいとはいえ、結局は定時に仕事が終わる。
この日もやはり午後5時調度に仕事を終えた室井は、見苦しくない程度にザッと机の上を整理し立ち上がった。
まるで見張ってでもいたかのように、直ぐさま野中が立ち上がり、いつものように尋ねてきた。
「課長、お帰りでしょうか?」
 
 
この部署へと異動されてからというもの、より以上に組織の中で孤立してしまっている室井だった。
そんな室井を、上の者達は言うまでもなく同期の者達でさえも公私共に誘う事など、皆無に等しかった。
とはいえ、副総監誘拐の一件で、事実上の次期総監吉田の覚えもめでたく、
まだまだこの先が閉ざされきった室井ではない。
むしろ一部からは、ますます将来を嘱望されているらしい。
ただ、今の段階ではまだ堂々とそれをそうとは言えないだけで。
結果、ある者は敵意を剥き出しに室井に絡んできたり、またある者は露骨なほどに無視し、
そのほかの者達はといえば、腫れ物にでも触るかのような態度で、室井を遠巻きに見ているだけだった。
そんな室井だから、軽く頷き「頼む」と一言、野中に言いさえすれば寒い思いもせず、
混み合った電車に揺られることもなく家へ帰れる。
たとえ待っているのが、人気も無く、寒々とした部屋だけであろうとも。
 
 
「直ぐに、玄関にお車を・・・」
「いや・・・車はいい」
「は?何か?」
「ああ、ちょっと・・・用があるんだ」
嘘だった。
用など何もない。
なのに何故だか、真っ直ぐ部屋へ帰るという気分になれなかった室井は車を断ってしまった。
「今日、外の寒さは格別ですが・・・」
チラリと窓の外を見やって中野が言った言葉に、室井はコートを羽織りながら苦笑する。
「東北出身だ。(寒さには)慣れてる」
「あ・・・!」
「お疲れさま。
 先に失礼する」
「お疲れさまです」
一礼する中野に、室井も小さく頷いて部屋を後にした。
 
 
「はぁ・・・」
北国出身とはいっても、やはり寒いものは寒い。
建物から一歩外に踏み出した室井を寒気が包む。
途端に、吐いた息が白く凍る。
このまま、以前から考えていた物を購入しようかと思った室井は、暫くぶりに銀座へでも出かけてみることにして
鞄の中から、使いつけの手袋を取り出した。
玄関を出て数歩の所で立ち止まったまま、付け始める。
後ろの方で玄関が開く気配がして、華やいだ声が届く。
「う〜っ、寒〜〜〜い!!」
「やっぱり、ストールとかココで付けてこうよ」
どうやら、彼女達もこの寒さに身支度を整えなおす気らしい。
室井の後ろの方で、ゴソゴソ・バサバサ盛大な音がする。
その音に紛れて、彼女たちの会話も耳に届く。
「ねぇ、ねぇ。
 アタシ格好、変じゃない?」
「変って・・・別に、いいんじゃない。
 何、どうしたの?」
「言い出し辛くって、言えなかったんだけど。
 アタシ、今日これから食事行くんだ」
「ええっ!!
 ヒドイッ!!誰と??」
「例の・・・」
「ええ〜〜〜っ!!
 じゃ、OK貰ったんだ。
 彼、付き合ってくれるって?」
「昼休みに、チョコ持って会いにいったの。
 で、アタシの方から・・・『付き合ってください』って。
 恥ずかしくって死にそうだったんだから」
「・・・・・でも、結局はOKもらったんでしょ。
 いいなぁ〜抜け駆け!!
 もぅ、今度奢ってよ。
 コッチは寂し〜い独り者なんだから!!」
「うん、奢る。
 今度好きな物、いっぱい奢っちゃう♪」
「あ〜あ、余裕ぅ」
「うふふふ♪」
「幸せそうな顔しちゃって。
 ・・・でもそうだよねぇ、バレンタインなんだもん。
 アタシくらいだよねぇ、こんな寂しいバレンタインなんての」
「まぁ、まぁ。
 近いうちに、きっといい人に出会えるって」
「『只今、幸せ絶頂で〜す♪』って人に慰められたって。
 ま、明日詳しく今夜のことも含めて聞かせてもらうとして、せめて途中まで一緒しよう」
「うん♪」
話に熱中していた二人は、今更ながらに前方室井の存在に気付いた。
二人同時に、今までの話し声とは比べ物にならないほどの小さな声で「あ・・・」と声を上げ、
「失礼します」と敬礼して、室井の「気をつけて帰りたまえ」の言葉もよくよく聞かないうちに、
また一層キャァキャァと華やぎながら、大急ぎで駅の方へと駆け出していった。
手袋をはめ終えた室井も、彼女たちの後から歩き出す。
 
 
官庁街の道は、直ぐに人影も疎らになる。
直ぐに先ほどの彼女たちの姿は消え、室井だけが歩いていた。
「そっか・・・今日は2月14日だったな」
彼女たちの会話を思い出し、片方の彼女の『寂しい独り者』という言葉に我が身を重ね、
人気のない部屋の事を思い出す。
突然の寒風が、室井に冷たい手を伸ばし、彼を捕まえる。
身も心も凍りそうな冷たさで次々に吹きつける寒風に、室井は閉じ込められる。
街の何処を見渡しても、温もりなど見つけられそうになく、このまま、この冷たい風に
何処かへ連れ去られそうな気さえする室井だった。
 
 
以前の室井であれば・・・以前のポストの室井であれば、仕事に追われ、
こんな風に時間を持て余すこともなかっただろうに。
今の仕事に対して、手を抜いたりしている室井ではない。
ベストを尽くしている。
けれど・・・『現場』での緊張感が、高揚感が忘れられなかった。
もう何度、あの頃に帰れたらと思ったか。
出来はしない、無駄なことだと分かりすぎるほど分かっていたのに。
それでもあの熱い日々が・・・・・室井を呼ぶのだった。
 
 
〜私は、何を待ってる?〜
 
 
(どんなに長く厳しい冬であろうと、いつかは穏やかで暖かな春がやってくるように、
 ヘリから見た子供たちが、小さな陽だまりを見つけ歓声を上げたように、
 私の元へも、いつかは待ち焦がれていたものがやってくるのだろうか?
 けれど・・・私の待っているものとは、何だ?)
 
 
未だ、自分の欲しているものに気付いていない室井。
何を欲しているのかも気付かないまま、ただひたすらに待ち焦がれる日々に、
室井の不安は増してゆくばかりだ。
たとえば、もしも『待っているもの』に気付かないまま、
傍らを通り過ぎたり、追い越し、追い越されたらどうなる?
それが、一生に一度っきりの廻り来た時だったとしたら?
気付けなかったらどうなる?
 
 
答えはまだ見つからない。
 
 
いつの間にかその場に立ち尽くしていた室井が、すぐ脇の車道に停まった車の気配で我に返る。
停まった車の中、運転席に人影を認める。
街路樹の陰で、よく顔が見えない。
眉を顰め、立ち止まったまま窓を見据えた。
それを待っていたかのように、パワーウィンドウが静かに下りてゆく。
相変わらず、暗くて見辛い車内の中から、思いがけない声が、車内灯の光の点灯とともに室井に届く。
「室井さん」
見覚えのある、懐かしい笑顔があった。
 
 
〜私は、誰を待ってる?〜
 
 
答えはまだ・・・・・
 
2002/02/11UP