一体、誰が言ったのだろう? エルフは泣かない。 決して、涙など流さないと・・・・・ [棘〜toge〜] いつ終焉の時が訪れるのかさえ定かではなかった指輪戦争が終わって、 まだ然程時は経ってはいなかった。 それでも、人々は日々の生活を取り戻す為の営みを、それぞれの地で営み始めていた。 遠く離れた懐かしい故郷で、新しい時代を刻み始めた王国で。 その中の一人、生まれ育った地の名をその名に持つエルフの王子は『闇の森』へは還らず、 親友のドワーフと共に予てより切に願っていたファンゴルンの森への訪問を終えた後、 今暫くは当地、ゴンドールの『白き塔の都』にて王国の客分として過ごす事になっていた。 滞在中の彼は、何人にも何ら自身の行動を規制される事なく自由に過ごす事が認められており、 王国の領民達は其処此処で凛と麗しいその容姿を目にする事が出来た。 数ヶ月前までは、空を行く鳥の影や吹いてくる風にさえも怯えていた日々が嘘のように穏やかな日々が続いていた。 荒れ果てていた大地には咲き競うが如くに花が咲き、緑は青々と萌え、 野山や森を駆け回る生き物達の姿もしばしば見掛けられるようになってきていた。 そんな中、未だに闇の残党が出没するという辺境に住む領民の訴えを受け、新国王エレスサールの命により、 ゴンドールの騎士達が残党狩りへと出発する事となった。 しかし王が自らも出陣の意向を示すという事態に、若き新執政ファラミアは一瞬愁眉を刻んだが、 結局は王の御意のままにと渋々承認した。 但し、『執政』とは言え優秀なる『武人』でもある執政自らも同行するという条件付きで。 その討伐帰りの道中、勿論一行に加わっていたレゴラスは、せっかく当てがわれていた馬から降り、 近くにいた騎士の一人に手綱を差し出す。 「済まないけれど、この子の事を頼める?」 「はっ、御任せ下さい!!」 「じゃぁ、お願いするね」 いきなりレゴラスに話しかけられ少し緊張した面持ちながらも、快く引き受けてくれた年若い騎士に向かってにこりと笑い掛けると、 レゴラスは軽やかに隊列の前方へと駆け出していった。 「アラゴルン」 彼は、新国王を未だこの名前で呼んでいた。 呼ばれた王は、ゆっくりと馬を止めると声の方へと頭を巡らせた。 同時に、王の傍らの馬上の男も振り返ってレゴラスを見る。 新しい国王と執政が、馬を並べレゴラスの方を見遣っている。 その光景に、レゴラスは二人に気付かれない程度に小さく息を呑んだ。 何事もないように二人の下に駆け寄ったレゴラスは、アラゴルンに言った。 「私は一足先に行って、今夜の夜営地に良さそうな場所を見つけてくるよ」 「頼む、レゴラス」 「任せておいて、アラゴルン」 「レゴラス殿、お気をつけて」 王の隣からファラミアも声を掛けてくる。 「相変わらず心配性だね、執政殿は。誰かさんにそっくりだ。でも、私なら大丈夫」 軽く手にした弓を叩いて見せ、二人に頷くと、レゴラスは直ぐに木立の中へと消えて行った。 ファラミアが、後姿を見送りながら呟いた。 「何時もながら、まるで爽やかな緑の風のような方ですね」 「ああ・・・」 アラゴルンも、同じようにレゴラスの後姿を見送っていた。 ファラミアは続ける。 「本当に、不思議な御方だ」 言いながら、初めてレゴラスを見たのは何時だったか?と思い返してみる。 確か、己が死の瀬戸際からやっとの思いで生還して直ぐだったと思う。 王自らが彼を紹介して下さった時だ。 けれどその時は、流石に気力も体力も衰弱し、半死半生の体のファラミアに、 レゴラスに対する興味は殆ど持ち様が無かったし、 「まだ時間は十分に有るのだからまずは体力を取り戻し後々ゆっくり」 とそれほど詳しい事は教えては貰えなかったと記憶している。 「あの方は、一体・・・」 聞くともなしに呟いた言葉に、王が応えた。 「『どんなヤツか?』と?」 アラゴルンは、穏やかに笑いながら応えた。 「あれは『闇の森』を統べるシンダール族のエルフの王、スランドゥイルの息子」 それは、今のファラミアにも分かりきった答えだった。 王は続ける。 「『闇の森』の王子にして私の掛替えの無い『旅の仲間』の一人。そして・・・・・」 後に続いた一言に、ファラミアは思わず不敬罪をも問われかねない程にアラゴルンを長い時間凝視した後、 慌ててもう一度、今はもう見えないレゴラスの後姿を、彼の駆け去った木立の中に探した。 彼らの目から自分の姿が隠れてしまったと知るや、レゴラスはますますその足を速めた。 まるで何かに追い立てられてでもいるかのように、木々の間を躊躇する事無く駆け抜けてゆく。 目前になって気付いた川でさえ、その背に見えない羽根を背負ってでもいるかのように難なく飛び越え対岸に降り立つと、 何事もなかったかのようにまた走り出す。 以前に比べ格段に平和になったとは言え、一応は周囲に目を配りながら走り続けるレゴラスだったが、 先程別れてきた、『彼の人』がその今際の際まで宿望して止まなかった新しきゴンドールの国王と、 それ以上に、今は亡き先代執政デネソール2世の血をより色濃く継ぐ賢弟の姿がちらついて仕方なかった。 こうなる事は、想像するに難くなかった。 だからこそレゴラスは、出来うる限りファラミアに近付くのを避けていたのだった。 ゴンドールの執政、デネソールの二人限の息子達。 母親似の兄と、父親似の弟。 兄弟とはいえ、容姿以上に考え方も行動も違う二人だったと聞く。 それでもやはり、彼等は『兄弟』だった。 些細な所が、何処かしら酷く似通っていてレゴラスを戸惑わせる。 その声が、その姿が、不意に兄君である『彼の人』を思い出させる。 敢えて城の外に住居を構え、何かと理由をつけて会議や会食の席で同席しないように気を付けていたのも 彼を近くに感じたくなかったからだ。 それほど注意を払っていても、先程の様に国王と執政が並び立つ様を目にする度、 何事にも冷静で、物事に動じない筈のエルフの心が押さえ様も無く乱れるのだった。 本来ならば国王の隣に共に在る筈だった『彼の人』の事を想って。 どれだけそうして走っただろう。 少なくとも人の子たちの所から此処までは、彼らの足で急いでも小一時間ほどは掛かろうかという程度の距離が離れているはずだった。 けれど、レゴラスの足は止まらない。 これだけ走っても、彼は息一つ乱れてはいなかった。 まだまだ走れる・・・筈だった。 「アッッ!!」 突然、後方に髪が引かれ、レゴラスは足を止めざるをえなくなった。 振り返ると自分の邪魔をする物をキッと睨み付けた。 見ると、白金を出来うる限りに細く細く伸ばし、銀を一緒に編みこんだならばこんな風合いになるのではないかと 細工好きのドワーフ達にさえ溜息混じりに囁かれているレゴラスの美しい髪の一房が、立ち木に絡まっていた。 小さく舌打ちをして、絡みついた髪を解きにかかる。 大方が取れたところでレゴラスは遂に痺れを切らし、髪がどうなろうとも構わず無理やり残りの髪を一気に引いた。 「・・・痛っ・・・・・」 外れたかと思ったのと同時に、一枝がレゴラスの手の甲を容赦なく打つ。 見る間にその立ち木の棘の掻き傷から血が滲み出す。 ヒリヒリと痛む感覚と、それでもまだ僅かに枝に絡まったまま残る髪に、思わずカッとしたレゴラスは片方の手に持っていた弓で木々を一薙ぎした。 気の昂りと同時に走っても上がらなかった息が上がり、肩が上下する。 打ち据えられた立ち木から、千切れた葉や小さな花が飛び散りレゴラスへと降り掛かかる。 落ちてゆく一葉を、レゴラスの視線がゆっくりと追う。 葉が地に落ちてしまっても彼は視線を上げなかった。 俯いたまま、今の昂ぶりが嘘のようにひっそりと立ち尽くす。 不意に、パタリと音がしたかと思うと、続け様にパタ、パタタと闇の森で狩った鹿の皮で作られた上等の、非常に美しく、 それでいて丈夫で軽い靴の甲の上に、降る様に落ち掛かる物があった。 見る間に其れは滑らかな皮の表面を濡らし、濃いシミを広げてゆく。 一体、誰が言ったのだろう。 エルフは泣かない。 涙など流さないと・・・・・。 『彼の人』を想うだけで、これ程容易く『哀しみ』は溢れ出してしまうのに。 抜けるような青空の下にも係わらず、雨が降る様に後から後から途切れる事無く、 レゴラスの両の目からは大粒の涙が零れ落ちてゆく。 尽きる事を知らぬ気に。 悠久の時を生きてゆく者として、心を平らかに、自分の傍らを過ぎて行く物事を常に静観出来る様にと、 事在るごとに諭され続け、自分でも十分に自分自身をコントロールし、これまでを何事もなく生きてきたのに。 それなのに・・・ これまで、自分以外の物にこんな風に当る事等無かった。 頑是無い子供のように、見境なく当り散らす事等無かった。 シルヴァンエルフとして何より大切にしてきた筈の、森と森を形作る物達にこんな理不尽な事をしてしまうとは、 レゴラス自身も思いもよらぬ事だった。 どうする事も出来ない自分に、驚愕し、後悔し、項垂れるしかないレゴラスだった。 零れ落ちる涙を拭う事さえ忘れ、レゴラスは緩々と視線を上げてゆく。 その目に、折れ、千切れ、所々無残に皮一枚で辛うじてぶら下がっている枝葉が目に入った。 「ああ・・・許しておくれ。お前達・・・」 一言呟いたレゴラスはそっと手を伸ばした。 労わる様に、届いた指先でその傷口を撫る。 「本当に、酷い事をしてしまったね・・・・・」 手の甲の傷は今もヒリヒリと痛み、涙も今暫くは止まりそうに無い。 けれど何よりレゴラスが痛みを感じていたのは、『棘』に刺された手の甲ではなかった。 彼が痛みを感じていたのは・・・『彼の人』が逝って以来、暗く澱みきっている胸の最奥の部分。 『棘』の痛みに『哀しみ』が弥増して。 まるで鋭い刃物が胸を刺し貫いている様に。 痛い(恋しい) 痛い(恋しい) 痛い(恋しい) 彼の人が恋しいと、胸の痛みが呼び続ける。 彼の人はもう、現し世の何処にも居ないというのに。 胸の痛みが消える事はなかったけれど、ようやく涙が途切れた頃。 最後の一滴が零れ落ちる前に、レゴラスはグイと自分の手でそれを拭った。 濡れた頬を、戦(そよ)と吹いてきた風が乾かしてくれる。 風の中に陽の光を浴びた若草の匂いを感じ取ったレゴラスの視線の先には、木立の隙間から今夜の夜営地に良さそうな広い草地が見えた。 気を凝らしてみれば、他にも水の香りがする。 辺りを探索してみれば、きっと泉か小川が在るに違いない。 後続の皆が、レゴラスの報告を待ち草臥れている事だろう。 そろそろ行かなければと思い、レゴラスは引き返そうとして先程絡まったままの髪の事を思い出した。 すると如何だろう?! あれ程難儀しても取れなかった髪が、レゴラスが触る前にするりと枝から離れた。 枝々の方から、離してくれでもしたかの様に。 「あれ程酷い事をしたのに・・・ありがとう」 レゴラスを取り巻く、立木達が返事をする様にざわめく。 森は気付いていたのだろう。 レゴラスの『哀しみ』が。 だからこそ「此処でお泣きなさい」と、言葉の代わりにその手を伸ばしてレゴラスを引き止めてくれたのだろう。 レゴラスにも、それが伝わったらしい。 「私、ずっと苦しかったのだよ・・・」 再び苦しげに視線を伏せはしたけれど、直ぐに上げた瞳に涙は無かった。 次の瞬間にはレゴラスは微笑み、弓を持ち直す。 「さぁ、皆を案内しないと。皆を連れてくるよ。今宵一晩、よろしく頼むね」 頷くように、背の高い木がザワリザワリと天辺近くの枝葉を揺らす。 レゴラスも満足げに頷くと、踵を返してアラゴルン達の元へと駆け戻っていった。 後には、彼の靴にも地面にも吸い取られる事無く、偶然足元に咲いていた名も無き小さな花達の葉に、花びらに、 彼の零した涙の数粒が陽の光を受け、キラキラと輝いているだけだった。 2003.02.11 UP |