会いたい気持ち


気付いてしまった。



「どうしよう?」とか、「なんで?」とか悩んでいる間もなく、どんどん気持ちが先走る。
自分の気持ちに訳が解らず、落ち着いて考えてみようなんて思ってみても、
ブレーキが壊れたみたいに、想う気持ちが止まらない。



会いたい気持ちが止まらない。



世間では会いたい、会いたいと思えば思うほど、会えないものだと聞いてはいたが、
見事に[彼]に会えない日々が続いていた。
湾岸署署内は勿論のこと、本庁でも後ろ姿でさえ見れなかった。
本庁へのお使い(?)など、いつもならば後輩の真下の人の良いのにつけ込んで、
ちゃっかり押し付けてしまっていたのに。
だから袴田課長の「エーッと、誰か本庁の・・・」の「本庁」に、
ついつい反応してしまった青島だった。
チョイチョイと課長の後ろから肩をつついて、
振り向いたところに、ニッコリと営業用スマイルで微笑んだ。
「課長♪」
「何?青島君?
 悪いんだけど、今忙しいんだよ私。
 え?君が?行きたいって??」
首を傾げる課長に、青島も可愛らしく(?)小首を傾げつつ頷いた。



「じゃコレ、捜査一課の新城管理官にお渡しして。
 必ず直接、ご本人にお渡ししてね。
 管理官がそう仰ってるんだから」
青島に書類を渡し、注意をしていた袴田だったが、
チョット目を離した隙に、青島はもう駆け出しかけていた。
「コラッ!!最後まで聞きなさいっての!!」
部屋の出入り口で、青島が足踏みしながら振り返る。
「モ〜ォ、何スか課長ォ!!」
「何なのよ、君。
 いつもなら『本庁』って聞いたら、ノラリクラリと逃げてたクセにぃ。
 なんかあるのォ?」
こんな時だけ、変に鋭い袴田に小さく舌打ちしながら先を促す青島だった。
「だからぁ〜、もうっ!!あと、何なんスか」
「エッ?アッそうそう、そうなんだよ。
 頼むからサ〜、絶対にアチラで変な事しでかさないでね?」
あまりの言われ方に、ムッとした青島は、
まだ何か言いたそうな袴田をほっぽって駆けだした。
「行ってきまーす!!」
「青島君!!聞いてんの!!
 とばっちりはごめんだからね!!」
廊下に袴田の絶叫が響く頃には、既に青島の姿は一階への階段へと消えていた。



「お説教が始まると、長いんだよね〜。ウチの課長」
大急ぎで駅に向かいながら、青島は呟いた。
上着の袖口をクイッと引っ張って、時計で時間を確認する。
「・・・9時か・・・」
急いで、頭の中で本庁までの時間を考える。
「・・・んヨシッ!!」
大きく頷くと、青島はスピードを上げて駆けだした。



会いたいと思えば思うほど、会えないと言われても、
心から会いたいと思っていれば会えるかもしれない。
[願いは叶う!!]
そんな風な事も、巷では言われているではないか。
願う力が強ければ強いほど、不思議な力が働いて、会えそうな気がしてくる。
そんな気がしてくること自体が、不思議な力の魔力のようだった。



電車のドアが開くのももどかしく、またまたドアの前で足踏みをしている青島だった。
ホームに電車が滑り込み、アナウンスと共にドアが開いた途端、
僅かの隙間から身体を捻り出すようにして青島は飛び出した。
出口への階段に向かい、まるで犯人でも追いかけているかのような勢いで
青島はホームを駆け抜けて行く。
周りの人たちの視線や、抗議の声など気にしている余裕は無かった。
「チョットごめんなさいね〜。
 ハイ、通りま〜す。
 アッ、すみません!!」
器用に人々の間を擦り抜けて行く。
(急がなきゃ!!)
気持ちに急かされて、本庁への道をひた走る。
本庁には、[彼]がいる。
そう思うと、いい加減走り草臥れたはずの身体に、再び力が甦る。
青島の目の前に、本庁の大きな建物が飛び込んできた。



別に約束した訳ではなかった。
自分が、湾岸署の使いをダシにして会いに来るなんて、[彼]は知らない。
会いたいと思っているのは、青島の勝手な思い。
いくら青島が会いたいと思っても、[彼]がそんな事を考えている筈もなかったし、
所轄の一刑事がいきなり行って、会える人では無かった。



桜の頃から、今は青葉の美しい季節に変わってしまっていた。
花冷えにコートが必要だったあの日、[彼]の髪に触れて以来、
一度たりとも[彼]に会えない青島だった。
あの日「ソレ」に気付いた途端、
青島は刑事部屋へ荷物とトレードマークのコートを取りに走っていた。
[彼の]の事が、気になってしょうがなかった。
このまま一人きりで、帰せない気がしたのだ。
そして、一人ホームに佇む[彼]を見付けた。
そのいつもよりさらに一回り小さな姿に胸が痛んで、声さえも掛けることが出来ないまま、
やっと次の電車で、脇に転がっていた鞄を手に帰って行く[彼]の後姿を見送った。
結局、声を掛ける事は出来なかった。
その後姿が電車と共に、青島の視界から消えてしまっても、
胸が掻きむしられる様に切なくて、暫くは動くことが出来なかった。



その後、何度[彼]に電話しようと思ったか。
自分でも頭が変になったのじゃないかと思ったのだが、
手紙を書こうかと思うことさえあった青島だった。
もどかしくて堪らない日々が続く。
自分の気持ちにさえ、やっと何とか「確信」が持てた青島が、
[彼]に初めて自分で意識して会いたいと思ったのに、
以来、まるで[彼]の姿に掠りもしない日々。
[彼]に会いに行く。
会えなかったとしても、せめて[彼]のあの涼やかな凛とした姿が見たかった。
話が出来なくても、何処かで[彼]のあの艶やかな良く通る声が聞きたかった。
「本庁」でなら、それが叶うかもしれなかった。
今日こそ[彼]に会えるかもしれない。
そんな気がしていた。



いよいよ、「本庁」の正面玄関は目の前だった。



季節的に、流石にそのままでは暑くて着れないので、
裏を取った状態の例のコートを行儀よく脱いで手に掛けると、
青島はドアが開くのを待って入室した。
嘗て一度だけ[彼]が管理官時代に来たことのある捜査一課の部屋に、
現在警備局で働いている[彼]が居る筈はなかったが、
ついキョロキョロと姿を探してしまう青島だった。
(やっぱ、居るはず無いか・・・)
そんな自分に苦笑して、小さなタメ息を1つついた。



肝心の新城管理官は会議のために席を外していた。
「私が代わりに預かろう」
島津課長はそう言って青島に手を差し出した。
「申し訳ないんスけど、管理官から直接手渡しで届けろって言われてるんで」
青島にとって島津は、年齢的にも階級的にも、
それから今まで頭にくることも度々あったとはいえ、
彼としてもその立場上という事があると分かっていたし、
基本的に嫌いな部類の人間ではなかったので、
心の底から申し訳なさそうにその手を断った。
島津の方も分かっているのか気分を害した風もなく、
あっさりとその手を引っ込めた。
「管理官は第一大会議室だ」
島津は右手の人差し指で天井を指すと、左手の腕時計を見た。
「もうそろそろ、終わる頃だな。
 行ってみるといい」
「すいません」
青島はペコリと頭を下げると、近くの出口に向かって部屋を横切った。



捜査一課から廊下に出た青島は、エレベーターに向かった。
登りのボタンを押してエレベーターが登ってくるのを待つ。
自分のいる階を目指して、エレベーターの数字が増えてゆくのを
上目使いに見ていた青島だったが、いきなり廊下を歩きだした。
エレベーターより歩いて階段を使って登れば、
一階ごとに大廊下だけでも各階ごとに覗くことが出来ると考えたのだ。
何処かで廊下を歩く[彼]を見付けられるかもしれないという、
儚い望み故の行動だった。
だが相手はそもそも此処ではなく警察庁勤務の上、
この広い本庁内でそう簡単にお目当ての[彼]出会える筈もなく、
青島の願いも虚しくあっとゆう間に第一大会議室の在る階に着いてしまった。
会議室の集められた階だけあって会議中の今、
歩いている人もなく、トボトボと青島だけが廊下を第一大会議室に向かって歩いていた。
第一大会議室を探して、プレートを確かめながら歩く。
いくつか「会議中」のプレートの掛かった扉の前を通り過ぎた。
「ここか」
大廊下に入って直ぐにその部屋はあった。
青島は恨めしそうに、そのドアを眺めた。
「ハァ」
思わず大きなため息が漏れた。
ここも会議はまだ続いているらしい。
このままここで会議の終わるのを待つ事にした青島は、
ドアを見つめたまま後ずさって壁に寄り掛かりながら、
何気なく今来た廊下の反対側に視線を泳がせた。



眉間の皺はいつもより浅いとはいえ、
その皺が苦悩の皺であることには変わりなかった。
後ろから来る部下に、これから行われる(無駄以外の何ものでもない会議の)
会議内容の追加報告を受けながら、エレベーターを降りた室井だった。
「その件についての書類を受け取った覚えはないが」
「はい、つい今し方届きましたので、私がコチラに」
そう言って、室井の右腕である中野が書類のファイルを繰る。
そんな中野の方を振り向きもせず、
前を向いたまま室井は黙って後ろを歩く中野の方に右手を差し出す。
いつもならすぐに書類が手渡されるところだが、今回は違った。
訝し気に中野に視線を送る。
「申し訳ありません。確認したはずが・・・」
いつもは冷静な中野が、珍しく慌てている。
心の中で小さくため息を吐いて、室井は言った。
「会議が始まるまでに、一度、目を通しておきたい」
「只今、直ぐに取って参りますので」
「頼む」
「ハイッ、申し訳ありません!!」
一礼すると、大急ぎでエレベーターホールへととって返す中野だった。



エレベーターホールを抜けて、室井が大廊下へ入ってきた。
右袖のボタンの引っかかりが気になって、そこを直しながら入ってきたので、
大廊下の反対側で寄り掛かっていた背中を、バネでも付いているかのように
ガバッと起こしてコチラを見つめる男の存在に気付くのが遅れた。
フイと視線をボタンから上げる。
それまで、袖口を直しながらもいつものようにピンと背筋を伸ばし、
颯爽とと歩いていた室井の足がピタリと止まった。
室井が青島だと気付いた瞬間には、
青島の方は大廊下のこちら側に向かって駆けだしていた。
室井も、気付いた途端さすがに青島のように駆け出す事はなかったが、
再び歩き出した速度はいつもより更に早くなっていた。
大廊下の途中で二人は再会し、立ち止まった。



いきなり室井が、青島の腕を掴んだ。
「何か・・・あったのか?」
室井は腕を掴んだまま青島を見上げ、覗き込むようにして尋ねた。
普段から言葉少なな分、言葉以上に雄弁に室井の心の内を語る瞳が、
青島の間近でダイレクトに見詰めてくる。
今までに1〜2度、青島はこんな風に間近で室井の瞳を見た事があった。
1度目は例の事件の時、ふてくされた青島が室井に刑事課から無理矢理連れ出され、
自販機の前でぶつかった時。
2度目は、その事件解決後の査問委員会の最中に。
それ以外では、こんな事は無かった。
室井の黒い瞳は、他人にとって底知れぬ魅力を湛えている。
たとえ偶然視線が合っただけだとしても、
その真っ黒な瞳に見つめられる事が他人にとって、どれだけの価値を持っているか。
その事を知ってか知らずか静かに輝いている。
室井はそれなりに広い湾岸署の大会議室でも合同捜査の会議中管理官として、
現地本部長として、前方のひな壇から、ある時は叱咤激励し、
またある時ははかどらない捜査に衰えそうになる志気を鼓舞するために
その瞳を捜査員達にヒタと据えていた。
この瞳に見詰められて、抗える人間がいるだろうか?とずっと青島は思っていた。
この瞳に見詰められたら、きっと誰もが・・・。
そう青島は思っていた。



今、室井の瞳は言い様のない緊張と、少しずつ胸の内を覆って行く不安に、
ゆらゆらと頼りな気に揺れていた。
(この瞳だ・・・)
二人が会ったばかりの頃は、この瞳の中に、
これまでやり遂げた仕事の結果からくる絶大な自信と、
何処までも上を目指す為の強い信念が、キャリアゆえの傲慢と共に現れていた。
それが何時からか、ほんの僅かにそれ以外の感情が見え隠れするようになってきた。
青島は、自分が室井のそんな微細な変化に気付いたのが何時なのか、
今もはっきりとは解らない。
自覚した時には、室井の瞳が何を考え、何に傷つき、何を想っているのか気になって、
目が離せなくなっていた。
今も、室井の瞳から目が離せず、吸い込まれそうな気がしてくる。
このまま瞳を見詰めていれば、
何時かは、少しずつでも室井の心の内が解るかもしれないと思ったりしながら。



何時までも惚けたように室井を見ている青島に、室井は少し強い口調で呼びかける。
「オイッ!!青島」
掴んだままの腕にも力が入る。
それから腕を揺り動かされて、漸くハッと我に返った青島だった。
パチパチと、2〜3度瞬きをした。
相変わらず、室井はじっと瞳を揺らしながら青島を見上げていた。
「あ・・・や、スミマセン。何でもないです」
「ホントか?」
心配げな室井は、心なしか顔色さえ変わっていた。
青島の言葉に、今一納得していなさそうな室井のために、言葉を続けた。
「新城さんにお使いで・・・っと、新城管理官でした、スミマセン。
 必要な書類があったらしくて。
 調度、みんな出払ってて。
 俺だけだったんスよね、その時刑事部屋に居たの」
「・・・・・」
無言で見つめる室井を安心させるように続ける。
「でー、俺が来ちゃった訳です。
 多分、俺見て管理官ヤな顔するだろうとは思ったんスけど」
ね?と笑いかける青島に、僅かに室井の眉間の皺が緩んだ。
「直接手渡せって課長に言われてて、島津さんからここ行けって。
 だから、ホント何でもないです」
ここまで聞いて、室井は思わず目を閉じると、俯きながら大きく詰めていた息を吐いた。
青島の腕に掛けていた手の力も、同時に緩む。
「・・・よかった・・・」
聞こえるか聞こえないかの、小さな呟きだった。
耳ざとくそれを聞いた青島が聞き返す。
「えっ?」
バッと俯いていた顔を上げると、室井は慌てて2・3歩後ろに引いた。
先程と違い、緩くではあったが、そのまま青島に掛けられていた手も自然と離れてゆく。
あ、と思った時には遅かった。
たった今まで、青島がちょっと屈んで覗き込んだ直ぐ目の前に、
室井の揺れる瞳が在ったのに。
あとほんの少し屈み込めば、その瞳に口づける事さえ出来たのに。
青島の腕にのせられた室井のほっそりとした先細りの形の良い指の、
青島に比べると一回り以上は華奢な腕の、感触をこの掌に引き寄せ、
感じることが出来たのに。



そんな事を考えている自分に気付き、青島はドキリとした。
自分が考えていた事を室井に気取られたのではないかと、
後ろめたさを感じつつ室井の顔色を伺った。
青島がそんなことを考えていたとも知らず、室井は俯いて立っていた。
俯いたまま、青島の方を見ようともしない室井が、妙に痛々しく見えた。
自分は、今までに何度室井にこんな表情をさせたのか?と青島は考えた。
突然、青島の胸の辺りがスウッと寒くなった。
全館冷暖房が完備され、適温が設定されているはずのこの建物で、
そんなはずはなかったが、気のせいではなかった。
たかが2・3歩のこの距離が、青島の胸を寒くしていた。
俯く室井を見ているのに耐えられなくなった青島が、室井の名前を呼んだ時だった。



まるで室井に、青島が呼んだ事を気付かせまいとするかのように、
ガタガタとドアの内側から音がし始めた。
ビクリと二人の躰が、同時に跳ねた。
二人の立っている、ちょうど真横の扉のノブがガチャリと音を立てる。
チラとそちらに視線を動かした室井は、再び青島の方を見ることもなく言った。
「失礼する」
そう言って青島の脇を通り過ぎる。
慌てて、とっさに室井の腕を掴もうとした青島だったが、
室井は気付かなかったかのようにスルリとその手をかわした。
歩き去る室井を呼び止めようと、口を開き掛けた瞬間、ドアが開き、
ドッと人波が二人の間に押し寄せた。
早足でその場を立ち去り掛けていた室井は、人波に呑まれることもなく廊下を進んで行く。
立ち止まったままだった青島の方は、モロにその波を受けた。
「何だ、コイツは?場違いなヤツがいるな」
とでも言いたげな人々の視線と態度に押されるまま、青島は壁際まで押しやられてしまった。
視線は、室井の去っていった方に向けられたままだったが、
そんな青島を呼ぶ声がした。
「青島!!」
その間に、あちこちの会議室からも人が吐き出され始めた。
小柄な室井の姿がこのまま消えてしまいそうで、
呼ばれたのを無視して室井の姿を視線で追う。
直ぐに間近で再び青島を呼ぶ声がした。
「青島!!聞こえなかったのか」
しょうがなく、後ろ髪を引かれる思いで声の方を向く。



そこには新城管理官が、険悪な空気を背負って立っていた。
「何でお前なんかがこんな所にいるんだ?」
この男も相変わらずだった。
副総監の事件後、少しは新城の下の者に対する態度が変わるかと思われたが、
表だってはこれといった変化はなかったようだ。
青島に対する態度も変わったようには思えなかった。
青島も今までの新城の態度が態度だっただけに、
今この時も口をへの字に曲げて新城を見下ろしている。
「袴田課長から、コレ、言付かってきました」
青島はブスッたれたまま、手にしていた書類袋を新城に差し出した。
子供じみた仕草だったが青島が新城の目の前に突き出すように差し出した書類袋を、
小馬鹿にした態度で、ピッと青島の手を袋で弾くようにして取り上げる新城だった。
途端に青島の眉間に、まるで室井のような皺がギュッと刻まれる。
「あんたね〜!!」
思わず口から出そうになったが、何とか大人の態度で我慢した。
そんな青島の事なぞ既に完全に視界から追い出して、新城は書類にザッと目を通す。
「何してる?」
いきなり、視線は書類のまま新城は言った。
「はいぃ?」
「用は済んだんだろう
 とっとと帰ったらどうだ。
 此処は、貴様なんぞの下っ端が居る所じゃない」」
堪らず、グッと青島の手が拳の形に握られた。
何とか残り僅かの理性を総動員して、営業の時に憶えた笑顔で答える。
「そうでした。
 じゃ、失礼します」
挨拶をする青島に、新城は返事すらせず、
代わりに書類から目を離すことなくフンと鼻で笑った。
そしてそのまま踵を返すと、エレベーターホールへと歩いて行ってしまった。



青島は横目でその姿を見送った。
そこで、ハッと慌ててもう居ないであろう室井の消えた廊下の方を振り返った。
新城と話していた時間はほんの僅かの時間だった。
しかし、何時もキビキビと足早に歩いてゆく室井の姿を見付けることは、
最早出来はしなかった。
未だ、会議室からは人が溢れ続けていた。
大廊下を行き来する人波から、あの小柄な室井の姿を見付けるのは、難しかった。
この状態では見付けられないかと思い始めた青島の目に、黒い物が映った。
遙か大廊下の端の会議室のドアが開いていて、
青島は黒い物が今まさに、そのドアの陰に消えるところを見たのだ。
室井に間違いないと思った。
自分が室井を見間違える筈が無かった。
どうして見間違いの筈がないと思ったのか。
そんな確信が何故あるのが不思議だとも思わなかった。
ただどうしても、絶対にあれは室井だと思えてならなかった。
会議室のドアに消える、見覚えのある室井のダークスーツの上着の裾が、
ヒラリとはためきながら消えるところが見えたのだ。
それはまるで室井からの別れの挨拶のように、青島には感じられた。
先程、突然に感じた胸の寒さは今も続いていた。
会いたいと思い続けていた室井に会えた嬉しさが、
彼の姿を見付けた瞬間、暖かく胸一杯に広がったのに。
会いたくても会えずに居た時には、感じなかった寂しさに歪んだ表情を隠すように、
青島は片手でその顔を覆った。
気付けばいつの間にか、人波は嘘のように引いていた。
大廊下に唯一人。
青島は力無く肩を落としたまま、暫くその場に立ち尽くしていた。



会議は30分ほどで終了した。
狭いドアから一斉に出ようとする人混みを避けるかのように、
室井は暫くイスから立ち上がらずにいた。
目の前の書類をまとめ、会議が始まる前に中野から受け取ったファイルへと戻す。
机の上に転がっていた万年筆を取り、ゆっくりと上着の内ポケットへ差し込む。
やっと腰を上げた室井に、それまですぐ後ろの席で静かに控えていた中野も立ち上がる。
室井は横を通りざま、手にしていたファイルを中野に渡す。
ドアの方を見遣ると、まだ話し込んでいる幹部達が居た。
ゴルフが、天気がと聞こえてくる。
無表情に彼らを一瞥した室井は、後に付いている中野の方をチラと見た。
日頃から室井の手となり足となって働いている中野は、
それだけで室井の言わんとすると事が理解できた。
室井はドアの前の幹部達に捕まるのを避ける為、
会議室の中の窓際に移動して彼らが行ってしまうのを待つことにした。
室井が窓際で立ち止まると、中野も少し離れて立ち止まった。
目の端でそれを認めた室井は、ドアに背を向け窓の外へと視線を泳がせた。



室井の視線がこの最上階に近い窓の外を、彷徨う。
ゆるく腕組みをして、見るとも無しに階下を見下ろす。
ボンヤリと通りを行き交う車や人々を眺めていた室井が、ハッと一点を凝視する。
組んでいた腕の片方を解いて、何かを呼び止めるように窓ガラスに指先が伸ばされる。
コツと爪が窓に当たる音がして、中野がファイルから目を上げ室井の方を見る。
「何か?」
尋ねる中野に慌てて手を引っ込め、何でもないと小さく首を振る。
中野の気持ちが手にしたファイルに戻ったの確認して、
室井は急いでさっき目に入った、見覚えあるグリーンのコートを探した。
こんな離れた距離で、どうして彼だと分かるのか。
室井には、自分でも不思議でならなかった。
しかし、間違いなくあれは青島だったと思う。
室井が青島だと思った男がいた辺りを探してみると、
彼は地下鉄の出入り口へ入ろうとしていた。
青島の名前を、心の中で呼んでみる。
その声がまるで聞こえたかのように、
グリーンのコート姿の男が立ち止まって、こちらを振り返った。
目を凝らしてみても、男の顔が判るわけではない。
それでも、やはりあれは青島だと確信する室井だった。
青島に、自分の声が届いたのだと、
だから青島が自分を探してくれているのだと思いたかった。
「・・・私は、此処だ・・・・・」
室井は声には出さず、唇だけを動かした。
男は眩しいのか、目の前に手をかざしている。
「此処だ・・・」
もう一度。



男は手を下ろすと踵を返して階段を降り、室井の視界から姿を消した。
室井はいつの間にかもう一度窓へと伸ばしていた右手を、
そのままゆっくりと上着の左の胸ポケットの辺りに戻した。
掌でそうっと上から押さえてみる。
そこにはあの日、室井の手の中で震えていた桜の花びらが一片、
思い出と共に仕舞い込まれている。
じんわりとそこから暖かい物が広がってゆくのが分かる。
室井が目を閉じると、瞼の裏には先程偶然会った青島の、
いつもの変わらない笑顔が浮かんだ。
「課長」
控えめな中野の呼びかけに、室井はゆっくりと目を開く。
振り返ると会議室の中は既に、室井と中野の二人きりだった。
目線でドアの方を指して、室井は出口へと歩き出す。
その後に中野が続く。
今まで室井が立っていた場所で、室井が何を見ていたのか気になって、
中野は自分も遥かな階下を見下ろしてみた。
しかし中野に室井が何に気を取られていたか分かる筈もなく、
階下にはいつもの雑踏が広がっているだけだった。



青島は気を取り直す事にした。
こんな事位でいちいち落ち込んではいられなかった。
あれほど会いたいと願っていた[彼]に会えたのだ。
あの花冷えの日に気付いた時から、こうなる事は分かっていた。
[彼]に会う度に一喜一憂する事は。
それでも会いたくて会いたくて、どうしようもない。
[彼]に少しでも近づきたかった。
まだ不安定で、自分でも持て余し気味のこの想いを、何時か伝えるために。
ひょっとすると、想いを伝えるのには一生かかるかもしれない。
それどころか一生かかっても、この想いは伝えられないかもしれない。
この想いは口にするのも、眼差しに込めるのも、
仕草の端にひっそりとのせる事さえ憚られる事かもしれないから。
それでも・・・・・。



あの恐ろしく高潔で孤独な[彼]の時々見せる、普段の[彼]からは想像もつかない程の、
思いがけず脆く儚げな瞳に気付いてしまった。
[彼]自身でさえ気付いていないであろう、[彼]の心の慟哭を聞いてしまった。
[彼]が壊れてしまう前に、せめて何とかしてやりたかった。
あの[彼]を何とかしてやりたいなんて、身の程知らずと言われそうだったが、
あの日ホームに佇んでいた[彼]を思い出す度、
これからもきっと青島はいたたまれず唇を噛み締める。
実際、[彼]の為に青島に何が出来ると言うわけでもないだろう。
ただ、[彼]が一人なのが堪らなかった。
だから側に居たいと思った。
何も出来なくても、何も言えなくても、それでいいと思った。
[彼]が一人には耐えられないと、一人では耐えられないと思った時、
誰よりも自分が側に居られればそれでよかった。
自分は一人ではないのだと気付いてくれれば、それで充分だった。



「まあ・・・ホントのとこ言っちゃうと、それだけじゃヤなんだけど・・・」
地下鉄のホームで電車を待ちながら、青島は独り言を呟いた。



会いたい会いたいと思っていたら、本当に会えたじゃないか。
心から願っていれば願いはきっと叶うのだ。
姿だけでも一目見れればと思っていたのに。
それどころか会って、話して・・・・・。
[彼]に会いたいともっと願おう。
会いたい会いたいと思っていたら、会えたのだから、
もっともっと会いたいと願ったら、またきっと[彼]に会える。
それは案外と近いうちかもしれない。
思いがけない時に、バッタリとなんて事もあるかもしれない。
今度はそれまでに色々と願っておこう。
会うだけじゃ物足りない。
会って、話して、それから・・・。



会いたい気持ちが止まらない。

1999.6.21 UP
2005.2.20 再UP