赤い川



なたが俺に求めたものは・・・
俺があなたに求めたものは・・・

 

あなたは『赤い川』に立ち尽くし、俺も『赤い川』に立ち尽くす。
 
 
 
「室井さん!!」
 
いつもの見慣れた後ろ姿。
何度呼びかけても、彼が振り返る事は無かった。
どんどん遠ざかる後ろ姿に、俺は慌てて追いかける。
今見失ったら、二度と追いつけないと解っていたから。
 
なのに、身体が重くて思うように走れない。
モタモタと何かを引きずる様な走りに、自分でも苛々する。
そうしているうちにも、彼はどんどん遠くなる。
このままでは彼を見失う。
焦った俺は、どうすれば彼に追いつけるのか考えた。
 
俺は少しでも身軽になろうと考えた。
まず思い付いたのは、いつも着慣れた、俺のトレードマークとも言えるアーミーグリーンのコート。
急いで脱ぎ捨てる。
それでも、彼との距離は縮まらない。
次に思い付いたのは、俺達現場の刑事の必需品。
ラバーソールの底の厚い、履き込んだ重い靴。
「裸足でこの後、追いかけるのに大丈夫か?」と思いつく間もなく、迷わず脱ぎ捨てる。
 
まだ重い。
 
スーツの上着を脱ぎ捨てる。
いつも(周りに言わせると)ヨレヨレとだらしなく、俺の胸の所にぶら下がっているネクタイも。
ポリシーと時間的な事もあって、アイロンも懸けない皺の残るボタンダウンのシャツだって。
だけど、彼との距離が縮まらない。


 
もどかしさに地団駄でも踏みそうな俺は、そうして気付く。
「ああ、これか・・・」と。
俺はあの時の怪我が元で今はまだ、
余程気を付けないと知っている筈の周りの皆でさえ気付かないほど僅かにではあるが、左足の方に歩行障害が残っていた。
本人でさえ、いつもは忘れ果てている程の。
それを、思い出したのだ。
この足が、重いのだ。
なら、この足も置いて行こう。
邪魔になるだけだ。
でも、片足だけだと歩きにくいか。
じゃあ、いっそのこと右の足も。
 
両の手で這いずるようにしながら追いかける。
やっとほんの少し、室井さんの姿が近くなったような気がする。
 



 
振り返ると、自分の這ってきた跡には赤黒く、置いてきた両足の傷口から流れ出た血が続いていた。
血が抜けていくにつれ、軽くなる身体。
不思議と痛みは感じない。
 

伸び続ける『赤い川』。
何処までも、何処までも。
 
 
と、また身体が重くなった。
(何だ?)
見ると振り向いた先には見知った面々が居た。
 
「おい!!青島」
「青島君!!」
「先輩!!」
「青島さん!!」
俺を気遣い呼ぶ声がする。
その皆の声さえ、今の俺には余計な物としか感じられない。
 
(放っておいてくれ!!)
 
俺は心の内で叫んで、そのまま皆を振り切った。
 

まだだ。
まだ彼に追いつけない。
俺を気遣い思ってくれている人たちよりも、背を向けて俺を置いて行こうとしている彼を追わずにはいられない。
なのに追いつけないなんて。
どうすれば良い?
そうだ!!
この気持ちだけでいい。
あの人の元に辿り着きたいという、この気持ちだけ。
コレさえあれば、十分だ。
 
こんな、役に立たない身体なんか要らない!!
 

 

俺は顔を横にして、うつ伏せにに倒れていた。
起きあがろうにも、指一本どころか瞬きするために、瞼を閉じることさえできない。
気付けば横たわったままの俺の目の前に、真っ赤な目をした子うさぎがいた。
さっき何処かに置いてきた足は元通りあって、代わりにほとんど完治して塞がっていた筈の腰の傷口から、
絶えることなく抜けていく真っ赤な血をじっと子うさぎは見つめる。
赤い瞳に映しながら。
赤い瞳の中を、俺の作った『赤い川』は淀むことなく動き、流れてゆく。
その赤い瞳を見て、俺は思いだした。
(室井さんは?)
 
子うさぎの赤い瞳は、あの時の彼を思い出させる。
普段は黒目勝ちな瞳が、俺が刺された現場に着いて、床に這う俺を見付けたあの時、
朦朧としながらも見つめる俺の目の前で、見る間に真っ赤に変わったのを憶えているから。
泣いていたのか?
目に涙は映らなかったけれど、ひょっとすると室井さんの何処かが泣いていたのかもしれない。
真っ赤な血の涙を流しながら。
彼の足元にも、その涙で出来た『赤い川』が見える。
横たわる俺の目の前には、子うさぎの血のような真っ赤な瞳。


 
「室井さん!!」
 
いつの間にか見失ってしまった室井さんの後ろ姿。
身動きは疎か、声を出すことも、瞬きすることさえ出来ない俺は、せめて心の中で力の限りに彼の名を叫んだ。
その瞬間、俺は身体が軽くなっていることに気付いた。
置いてきたはずの何もかもを、キチンといつも通りに身につけ、身体も元のとおりになってその場に立っていた。
恐る恐る、歩いてみる。
一歩、二歩。
大丈夫だ、歩ける。
思った俺はゆっくりと歩き出し、そして段々と足取りを速め、最後にはいつもみたいに走り始めた。
先程までの身体の重さは嘘のように消えている。
いつもより軽いくらいの足取りで彼を追う。
これなら、見失った室井さんを見つけて、追い付つくことは容易いだろう。

 
彼はまだ、人知れず『赤い川』をその後に残しながら、たった一人歩いているはずだ。
これから先、彼の作る『赤い川』が干上がることはないだろう。
彼がこの道を選んで歩み続ける限り、彼の『赤い川』は彼の身体を源として湧き出し続けるのだから。
『永遠の約束』を刻み込んだ、その傷口から。
少しずつ粉々に壊れてゆく彼から。
何時までも何時までも・・・・・。

 
だから俺は、彼を追う。
室井さんが室井さん以外のモノになってしまう前に。
室井さんが力尽きてしまう前に。
室井さんと俺との、『永遠の約束』が消えてしまう前に。

 
俺も『赤い川』から逃れることは出来ないだろう。
これからも。
室井さんを追って、進む限り『赤い川』は俺の後をついてくる。
彼のために何も出来ずに、その自分の不甲斐なさから流す『赤い川』もあるだろう。


俺が追ったことで、室井さんが流さなければならない『赤い川』もあるだろう。
だけど、彼ならそれを許してくれると思う。
己の信念に従えと。
せめて、君だけでも自分の信念を貫けと。
『赤い川』の中にに佇んで、そこから静かに俺を見ているだろう。

俺は『赤い川』を後に残して走り続ける。
室井さんのために。
何より、自分自身であり続けるために。

 
二人とも『赤い川』から、逃げることは出来ない。

 
『赤い川』は俺達二人を飲み込んで、やがて大きな『赤い海』になる。
二人してその『赤い海』に溺れてしまおうか。
『赤い海』の底でなら、二人だけでまた『永遠の約束』を互いの胸に二度と消えることのない程に、深く刻み合えるかもしれない。
そうしたら、また互いに流れていける。
『赤い海』から『赤い川』へと、より厳しい流れとなっても。

 
俺達の『赤い川』は、何時までも何処までも続く。
細く、広く、速く、遅く、激しく、時に静かに・・・・・しかし留まることなく。

 

 
夜勤明け。
目覚める間際の浅い夢。
俺は『赤い川』の夢を見た。
                                                             2000・05・07UP   




←ご意見、ご感想はコチラにて承っております♪