あなたに逢いたい |
「あなたを離さないから」
春浅い日、柳葉をしっかりと胸の内に抱き込んだ彼は言った。
「我が儘な愛し方かもしれないよ、俺の愛し方は」
とも言った。
そんな彼の言葉を改めて一人で思い返していた柳葉は、自分のとった行動があれで良かったのかと、今更ながらに考え込んでしまう。
(どうする気なんだろう?あいつも、俺も・・・)
日々の暮らしのちょっとした瞬間に、あの時の織田の真剣な眼差しが甦る。
織田が、あの時の言葉の数々を本気で口にしたのは解りすぎる程解っていたので、
彼の次にとるであろう行動を、柳葉はらしくもなく少し怯えながら、しかし僅かばかりの期待も込めて待っていたのである。
柳葉の心配をよそに、織田は何を仕掛けてくるでもなく我が儘を言うでもなく、むしろ柳葉が拍子抜けをする位に模範的で、聞き分けのいい年下の恋人をつとめていた。
以前に一度だけ、柳葉の方が少し羽目を外したことがあってその結果、織田がヤキモチを灼いたということがあったが、
我が儘というほどのこともせずに、まるでだだっ子のように振る舞っただけで、柳葉にとっては目新しい織田が見られたし可愛かったという範囲のモノだった。
(※『夏の影』参照)
「ねぇ、ギバにぃ」
妻がそんな風に甘えた物言いをする時は、大抵は何か彼女なりに考えのある時だったので、柳葉はちょっと心の中で構えながら返事をした。
「うん?」
柳葉は、彼女には何か欲しい物でもあって、そのおねだりなのだろうか?それとも、何処かへ連れて行けとでも言うのだろうか?と、そんな事を考えた。
「あのねぇ・・・」
歯切れの悪い、何とも言いにくそうな妻に、少し眉間に皺を寄せた柳葉が先を促す。
「何?何か欲しいもんでも有んの?例えば、スンゲェ高いもんとだとか?」
「ううん、違う!!」
慌てて妻は否定する。
「じゃ、何?どっか行きたいの?」
「そうじゃないの!!」
柳葉が何か言うと直ぐに「違う」との答えがあって、彼には妻が何をどうしたいのかますます解らずに、思いっ切り「?」マークを浮かべた顔で尋ねた。
「何ィ?はっきり言えっで!!」
思わず、言葉の終わりにお国訛りが混じってしまった。
妻はそんな風にお国訛りが出始めた夫が、かなりイライラしてきたという事だと気付いたので、ソロソロ覚悟を決めて本題を持ち出すことにした。
大きく一つ息を付いて、彼女は言った。
「お友だちを・・・ね、呼びたいの」
「はぁ?」
余りに簡単なお願いに、柳葉は聞き違いかと思いもう一度尋ねた。
「何だって?」
「・・・もういいわ」
「だからぁ、何だっで!」
お願い事を引っ込めて話を終わらせようとする妻に、柳葉は苦笑しながら言った。
「『もういい』なんて言わんでさ。何?」
「・・・」
「誰が呼びてぇの?ココに呼びたいのか?」
上目使いに柳葉を見た妻は、申し訳なさそうに言った。
「結婚してずっと、ギバにぃが嫌がると思って断り続けてきたんだけど、どうしてもって言ってるの」
「誰がぁ?」
「小学校からの幼なじみが2人・・・」
そう言うとまた、ジッと柳葉を見つめてくる。
結婚して3年。
彼女なりに、ずっと気を使って言えないでいたのだろうと思い、柳葉はニコッと笑って指で丸を作った。
「OK!!いいんじゃない。俺は構わないから」
しかし、妻はなおも浮かない顔をしたままだった。
不審に思った柳葉が、妻の顔を覗き込んだ。
「何?何かまだあんの?」
「ごめんなさいッ!!あなたにもね、居て欲しいの!!」
「はぁっ??」
「結婚式の時は、バタバタしてそれどころじゃ無かったでしょう?」
柳葉はチラッと思い出してみる。
「だから、一度ちゃんと紹介してって。ダメ?・・・よね・・・」
シュンと肩を落とす目の前の妻に、苦笑してしまう。
滅多にない「おねだり」に、ここの所は彼女の友人への手前もあるだろうし、快く承諾してやろうと思う柳葉だった。
「で、何日?俺のスケジュール言っとくから、それで決めれば?」
「ありがとう!!」
パッと妻の顔が笑顔で輝くのを見て、柳葉もつられてニコニコと笑っていた。
朝から降り続いている雨は、夜になっても一向に止みそうにない。
妻との約束どおり、柳葉は事務所に頼んでスケジュールを調整して、今日を一日開けてもらっていた。
正確にいえば数日前から買い出しだナンだと準備もあって、仕事の時より忙しいくらいで、少々疲れ気味だった。
夕食後、後片付けを手伝うという妻を、友人達との話もまだまだ尽きないだろうと居間に押し留めて、柳葉は一人、キッチンで食器を洗い始めた。
気になるからと妻が様子を見についてきたが、大丈夫だと洗剤で泡だらけの手を振った。
それでも心配する妻に、ふざけてその手で触る振りをしてみる。
「あんまり、言うこときがねっと」
「ヤ〜ダ♪」
と、一応嫌がる振りをしてクスクス笑いながら、妻はキッチンを後にした。
「大切な食器ばっかりなんだから」と、最後に注意するのも忘れずに・・・。
妻の言葉を頭に入れて、慎重な中にも実に手際よく後片付けを済ませた柳葉は、お客に気を使って吸わずにいた煙草を、漸くエプロンのポケットから取り出した。
トントンと叩いて、パッケージから浮き出てきた一本を抜き取ると口に銜え、火を探す。
いつもならライターを使うところだが、今はナゼかマッチで火を付けたくなって、非常用にと台所に置いてあるはずのマッチを探す。
キョロキョロと見渡して見たが見当たらない。
マッチがキッチンの目に見えるところに出ていないのを確かめると、今度は次々に食器棚を覗いてみる。
二つ目の棚の扉を開くと、大皿の影に、やっとお目当てのモノを見付けて、ついニッと笑った。
手に取り扉を閉めた柳葉は、ナンだって急にマッチなのか?と考えてみた。
思い当たるコトは一つ。
出会ったのは3年前。
新年スタートの新しいドラマの撮影で、初めて言葉を交わした。
そのドラマの時に役作りの為もあって、男は煙草を吸う度にマッチで火を付けていた。
ヘビースモーカーらしく、その分灰皿には煙草と同様にマッチの燃え残りの棒が山と積まれていったのを憶えている。
しかも、そのマッチもどんなモノでもいいというわけではなく、小道具担当者とアレコレ探してやっと納得のいくモノを見付けだして決めたというモノだった。
(ドコが違うんかなぁ?俺には、未だにサッパリわかんねぇ・・・)
手元の、ナンの変哲もないマッチを眺めた。
たまにお目当てのマッチが見つからずに他のモノを渡されても、
「絶対にイヤだ」と言って、何より楽しみにしている休憩時間の煙草を吸うのを諦める位だった彼を思い出す。
彼のコトを考えていた柳葉は、自分の口元が微笑んでいるのにも気付かない。
手の平の箱から一本マッチを取り出した柳葉が、口に銜えていた煙草に火を付けようとマッチをすりかけた時、
キッチンのカウンターの隅に置いておいた携帯が鳴り出した。
携帯を持つのは束縛されているようで、あまり好きではなかった。
出来ることなら遠ざけて置きたいのだけれど、仕事柄、いつかかってくるかも判らないので、いつも手近に置いておいた。
バッテリー切れで、大切な用件が途中で途切れてしまうことのないように、調度充電器ごとキッチンの片隅に持ってきておいたのだ。
銜えていた煙草を慌てて外して、電話を取り上げる。
先方のナンバーは非表示扱いになっているらしい。
ディスプレイに相手を知らせるモノは何も表示されていない。
「もしもーし」
相手は判らなかったが、いつもの調子で出てみた。
だが、相手からの返事はない。
「?」
柳葉は首を傾げる。
もう一度問い掛けてみる。
「もっしもーし!誰だぁ?」
返事を待ちながら、この電話番号を知っている人間を思い浮かべ始めた。
(マネージャーだろう。それから、あったり前だけどかみさんだろう。ダチ連中に、それから・・・)
ハッと思い当たった途端、一度キューッと胸が締め付けられるような感覚があって、その後ドキドキと高鳴り始めた。
(あいつか?)
単純に期待している柳葉がいた。
今は確か、ニューアルバムのプロモーションや、年末頃から入る予定の新作映画の準備で、超が付くほど多忙なはずだった。
(だから、もう・・・どんだけ会ってないのかも判んねーじゃんか)
そう考えた柳葉は、自分ばかりがこんな風に思わせられているのかと、
悔しさ紛れに電話の向こう側の相手を端っから疑うこともなく勝手に「彼」だと決めつけて、少し意地悪をすることにした。
(絶対に向こうが名乗るまで、名前、呼んでやらねぇ)
イタズラッ子のような自分の考えに、ニンマリと笑ってしまう。
『相手が諦めて名乗るまでは、自分も知らない振りをする!!』と決めた柳葉の耳に当てられた携帯からは、相手の息づかい一つ聞こえてはこない。
相手が沈黙したままの時間はホンの数分だったのだろうが、柳葉には長い時間に思えた。
(・・・おいおい。もしかして、人違いか?イタ電かよ?)
沈黙の長さに柳葉が、いよいよイタズラ電話なら一言言ってサッサと切ってしまおうと口を開いた時に、相手の方もその気配を察したのか、漸く口を開いた。
「・・・逢いたい・・・」
聞き覚えのある、柳葉が待ち望んでいた声が携帯から零れてきた。
声の具合に、今の自分の浮き立ち始めた気持ちが表れないように気を付けながら、少しぶっきらぼうに話してみる。
「だ〜か〜らぁ、誰よ?オタク」
「・・・逢いたい・・・」
相手は同じ言葉を繰り返す。
「『逢いたい』ってったって」
「・・・逢いたい・・・」
「誰だか判んなきゃ、どうしようもないじゃん」
「・・・逢いたい・・・」
「・・・逢いたい・・・」
その言葉以外は言葉を持たないかのように、相手はその言葉だけを呟き続ける。
声色にどこか切羽詰まったものを感じて、柳葉は折れることにした。
「お前、織田だろう?」
「・・・逢いたい・・・」
相手はなおも同じ言葉だけを繰り返す。
繰り返される言葉に、いつの間に生まれたのか、柳葉の方も「逢いたい」という気持ちが段々と強くなってくる。
今すぐにでも「ドコにいる?」と聞いて、この場から取り敢えず車のキーだけを持って駆けだそうかとさえ思えてきた。
しかし、急に居間の方から妻達の笑い声が響いてきて、柳葉の思考を中断させた。
笑い声にビクリとして、携帯を取り落としそうになった柳葉は、自分の中の「逢いたい」と思う気持ちを押し殺すことにした。
「ワリィ。今は・・・今日は無理だ・・・」
「・・・・・」
相手が無言になったので、柳葉は自分が嫌いな「言い訳」を次々と並べてしまう。
「たまの休みくらい、かみさんサービスしてやりたくってな。
それに今日は、かみさんの友達が2人ばかし来てンだ。ずっとウチに来たかったらしくってさ、でもかみさんがオレに気ィ使って言えなかったんだと」
相手が聞いているのかいないのか。
それでも柳葉は、喋り続けずにはいられない。
「どうしても、オレにいっぺん会いたいとか言ってたらしいんだ。で、今日は一日休み作ってさ・・・」
「・・・逢いたい・・・」
織田が、ポツリと携帯越しにもう一度呟いた。
遠くに強い雨の近付いてくる音がする。
柳葉は、隠れるように、キッチンの隅の棚と壁の隙間に入り込む。
「だから・・・今日はダメなんだって」
「・・・逢いたい・・・」
「無理言うなよぉ」
普段ならば「しつこい」とサッサと片づけてしまう柳葉だったが、これ程に言い募られると、困りながらもむしろ嬉しいと思えてきてしまった。
織田のわがままが、とても嬉しかった。
逢うのは無理だったが聞いてみた。
「今、どっからだ?」
「・・・言ったら、来てくれるの?」
初めて「逢いたい」以外の言葉が聞けた。
柳葉の表情が、ますます穏やかなモノに変わる。
「やっぱり聞かねぇ。聞いたって、行けねぇもん」
電話の向こうで、織田も穏やかに笑っているような気配を感じた。
「わかりました。じゃあ・・・」
柳葉がこれから少し話でもしようかと考えていたのに、織田はあっさりと電話を切ろうとした。
慌てた柳葉だったが、引き留める理由を見付けられない。
「ちょっと!!」
それだけ言うのがやっとで、後は言葉が続かない。
織田は携帯を切らずに、柳葉の次の言葉を待っている。
とうとうココまで来た強い雨が、ザアザアと換気用の細長い窓にも打ち付けて、その音だけが柳葉の耳に入ってくる。
黙ったまま、携帯が切られることはなく時間が過ぎていく。
突然、雨の音に紛れてけたたましいクラクションの音が聞こえた。
普段なら聞き流す柳葉だが、妙に気になってしまう。
と、携帯から聞こえてきたのは。
『バカヤロー!!気を付けろ!!』
窓の外からも、同じ言葉が聞こえた。
(まさか!!)
柳葉は雨が吹き込むのも構わず、窓を開けてマンションの下の道路を見る。
(居た・・・)
柳葉が、今居る場所を織田が知るはずもなく、見当違いのところを見てはいたが、確かに織田が居た。
雨の降る夜。
傘もささずに立ち尽くす織田は、暫くマンションを見上げていたがゆっくりと顔を伏せてしまった。
その様子が、捨てられた犬を想像させる。
「じゃ、また・・・」
呆然と見下ろしていた柳葉の耳に、それだけ残して織田は携帯を切ってしまった。
「あっ!!ちょ、待て!!」
間に合わず虚しく柳葉の声だけが携帯に吸い込まれていった。
「あんの、バカタレがぁ!!」
携帯に向かって悪態をつく柳葉に声が掛かる。
「ギバにぃ、どうかしたの?」
ギクリとして、慌ててポケットに隠すように携帯をしまい込む。
「何?」
「何か言ってたでしょう?」
キッチンに入って来た妻が、柳葉の方に近付いてくる。
その姿を見ながら、もっともらしい言い訳を考える。
「イヤね、お昼にココでイロイロと仕事やってて、この窓開けてたのを忘れてたもんで、雨がさ」
そう言って近くにあった、キッチン用の雑巾でたった今入り込んでそこここを濡らした雨を拭き取る。
「そう・・・あっち来ないかなと思って呼びに来たんだけど」
簡単に、妻は柳葉の言うことを信じたらしかった。
「え?・・・そだな、ここら辺の後片付けもう少しだから。なんかここからでも、盛り上がってるのわかる。
すんごい大笑いしたりしてるから。ココ片付けたら顔出すからさ、面白そうなネタ、取っといて」
「ウン、わかった」
「そうだ!!明日はゴミの日だったよな?出してくるから」
「私が明日の朝やるから、いいわよ」
「いいって。ついでだ、ついで!普段、全然やってやってないもんな?きっと、今日くらいだゾォ。オレがこんなコトしてやるって言うなんて」
ニヤニヤ笑いながら言ってみる。
「じゃあ・・・頼んじゃおッかな♪」
「ヨッシャ!!まかしとけッ!!」
たわいなく話しているようでいて、心中は織田のことを考えて焦っていた。
「今のうちに出してくっから」
焦っているのを気取られないように気を付けて、纏めてあったゴミの袋を手に取る。
「お願いしま〜す♪」
妻は何も知らずに、笑いながら戯けてペコリとお辞儀をする。
(ゴメンなぁ・・・)
胸の中で呟いて、柳葉は居間を通らずに廊下へ出て玄関に向かった。
急いではき慣れたスニーカーに足を入れ、かかとも踏みつけたままドアを開ける。
「ギバにぃ」
ドアを閉めた途端駆けだそうとした柳葉に、後ろから、付いてきた妻が声を掛けてきた。
焦っていて、注意力が散漫になっていたらしい。
まるで気付かなかった。
今日何度目だろう・・・、ギクリと身が竦む。
必死で平静を装いつつ、振り向く。
「何?」
妻は傘を振りながら、ドアから半身を出していた。
「これこれ!!ゴミ捨て場、そのまんまじゃ濡れちゃう」
ほーっと、力が抜けた。
「あ・・・そっか。ウン、ありがとう」
傘を受け取ると、妻がドアを閉めるのを待って、急いでエレベーターに向かった。
チラチラと自宅のドアを気にしながら、エレベーターの下降ボタンを押す。
今の時間帯なら、エレベーターはスムーズに邪魔の入ることなく、直ぐにやってくるはずだった。
しかし、気持ちがもう「待つ」ことを由としなかった。
せっかく呼んだエレベーターが着くのももどかしく、柳葉は階段の方へ駆けだした。
飛ぶ勢いで、一気に階段を駆け下りる。
(まだ、居ろよぉ)
最後の数段も飛び降りて、エントランスを裏口の方へ駆け抜けた。
ドアを引くところを、急ぐ余りに押してしまいガタガタと何度か取っ手を鳴らした。
やっと間違いに気付くと、チッと舌打ちしてドアを引いて外に出る。
途中、ゴミ置き場の近くにゴミの袋を置かせてもらって、マンションの裏側の、先程織田の居た辺りが見えるところへ向かう。
キッチンから織田を見付けて、すでに大分時間が経っている。
きっともう帰ってしまっているだろうという気持ちと、まだあそこに立っているに違いないという気持ちが浮かんでは消え、浮かんでは消えする。
そして其処に、すでに織田の姿はなかった。
(帰っちまったのか・・・)
柳葉は、自分でも驚くほどガッカリ気落ちしてしまった。
(なんだ・・・帰っちゃったのか・・・)
スンと鼻を鳴らすと仕方なく置きっぱなしのゴミのところへトボトボと引き返す。
ゴミの袋を拾い上げようと手を伸ばした柳葉の耳に、続けざまに3度くしゃみが聞こえた。
慌ててもう一度引き返して、よくよく強い雨の暗闇に目を凝らす。
心もち雨足が弱まったせいか、ボンヤリと歩き去る人影が見えた。
すぐ側に見慣れた車が停まっている。
その人影は織田に間違いないと思われた。
織田のことを見間違いっこないと、妙な自信が柳葉にはあったし、実際人影はその車のドアを開けて乗り込もうとした。
(あんのヤロー!)
とっさにGパンのポケットに突っ込んで出てきた車などのキーを付けたキーホルダーを、織田の方に思いっ切り投げつけた。
ジャラジャラと沢山の鍵などが付いたキーホルダーは、日頃の草野球の成果か、思い掛けず目標に向かって正確に飛んでいった。
織田が乗り込もうと大きく開いたドアの内側の内装に鈍い音を立ててぶつかって、そのままアスファルトに落ちた。
足元に落ちた鍵の束には見覚えがあった。
柳葉の性格らしく、沢山の鍵やマスコットが付けられたキーホルダー。
もらったモノや、一度付けたモノは捨てられない、外せない。
それでキーの束はドンドン重く、統一感なく増えていく。
見る度に重く嵩張っていく束が柳葉の懐の大きさ、人の良さのようだった。
そのキーホルダーだった。
振り向くと、正面にある柳葉の自宅マンションの裏口の雨よけのところに、柳葉が仁王立ちで立っていた。
織田が自分に気付いたと知ると片手を上げて、「来い、来い」とばかりに振っている。
躊躇して車のドアに手を掛けたまま、その様子を見ていた織田に、柳葉のリアクションが大きくなる。
「こっちゃー来いッ!!」
まるでそう言っているかのように、ブンブンと招く。
仕方ないと諦めて、ドアを閉め足元のキーホルダーを拾い上げ、愚図愚図近付いてくる織田は、
悪いことをしたと自分で判っていて、飼い主に叱られに近付いてくる大型犬のようだった。
シュンと耳を垂れ、いつもならばフサフサと揺れる立派な尻尾も雨に濡れダラリとぶら下がっているという感じか。
腕組みして見ていた柳葉は、目の前数メートルまで来た織田の姿にそんな想像をした。
そこから近付こうとしない織田に、柳葉はフウッと聞こえよがしの大きなタメ息を付いた。
織田は居たたまれずに俯いてしまう。
「ご・・・ごめんなさい」
小さな声で呟いた。
「はぁ?雨の音が大きくって、聞こえネェなぁ」
シュンとしたまま項垂れる織田が、可愛くってつい苛めてしまう。
いつもなら身長差があって上目使いに見るのは柳葉の方だが、
今日は織田の方がオズオズと柳葉を上目使いに雨に濡れて張り付く前髪のしたから覗いていた。
「ごめんなさいっ!」
その大きさと真っ黒な瞳の色故に、柳葉に睨まれるとかなりコワイ。
本気で怒らせてしまったかと、織田はもう一度謝った。
「なんなんだ、あの電話」
不機嫌そうな柳葉の声。
「ココのトコ忙しくって・・・なんか、煮詰まっちゃったっていうか・・・どうしても逢いたかったんだ!!」
つい、声が大きくなってしまう。
そんな織田を、「シイッ」と自分の口に人差し指を慌てて当てて柳葉が制する。
「アッ!」
織田も自分の声の大きさにハッとして、また謝る。
「ゴメン・・・なさい」
当代きっての若手俳優と言われている織田も、こうなってはどうしようもなかった。
柳葉も、織田の情けない姿に、ようやっと許してやることにした。
「ほれ、濡れっゾ」
雨よけにまで入ってこない織田に、持っていた傘を開いて差し掛けてやる。
二人で傘の中にはいると、やはり柳葉はいつも通りに織田を見上げる形になる。
「柳葉さん・・・」
囁くように織田が柳葉の名を呼んだ。
「ん?」
「これ、折角なんだけど・・・今更だと思う」
目で傘を指して織田が笑う。
「へ?」と織田よりもう少し上にある傘を見上げると、タイミングよく織田の濡れた前髪からポタリと柳葉の目の辺りに一粒滴が滴ってきた。
目の中に入って、慌てて数度瞬いた。
「ね?」
電話での彼の切羽詰まった感じを心配していた柳葉だったが、この笑顔でやっと安心できた。
「そういえば。お客さんなんでしょう?」
「あ〜?」
「さっき電話で・・・何?アレ、ウソだったの?」
「バッカ!!ホントだって・・・これからまた、相手しなきゃなんねぇんだよ」
さっき「逢えない」と断ったコトを、そう決めつけて勝手に落ち込みそうになった織田の濡れた前髪から今にも滴りそうになっている雨粒をピンと弾く。
飛んできた水滴に、織田はますます顔を顰める。
「帰る」
「おい〜、あんま子供みたいなマネすんなよ」
いよいよ臍を曲げたのか、帰ると言い出した織田にウンザリした口調で柳葉は言った。
「子供じゃないよ」
そっぽを向いて織田が返す。
「その態度の、ドコが大人だ。ド・コ・が!!」
普段から礼儀に厳しい柳葉だったが、そんなことも忘れて織田の胸の辺りを指さした。
「いつもは、自分が人を『指さすな!』って言うクセに」織田は、視線だけチロリと自分を差す柳葉の指に向けた。
「お前は〜」
柳葉が唸るようにそれだけ言った後、二人は不機嫌に黙ってしまった。
「折角、逢えたのに・・・」
相変わらずそっぽを向いたまま、織田が言った。
黙って織田の横顔を見上げていた柳葉に、やっと顔を戻した織田はタメ息と共に続ける。
「こんなの、ヤダよね?」
淋しそうに笑う織田に、柳葉の不機嫌そうに寄せられていた眉も緩んでゆく。
「久しぶりなのに・・・。逢いたかった柳葉さんに、こうして逢えたんだから、それで充分なのにね」
「・・・ホント、ゴメンな。よりに因って、今日電話くれるなんてな」
「ずっと逢えなくっても何とかやってたんだけど、無性に逢いたくなっちゃって、気が付いたらココに来ちゃってたんだ」
「そっか」
「うん。住所だけは知ってたからさ」
二人のこんな関係が始まってから半年が過ぎた今も、織田が柳葉の自宅を訪れたことは一度もなかった。
逢うのは必ず織田の部屋。
何処か他で逢うことも無かった。
逢える僅かの時間に、自分達以外のことで煩わされるのが嫌だったから。
どちらもが逢うために工面した貴重な時間を、大切にしていた二人だから。
第一、二人が逢えた時間は、まだほんの数えるほどで・・・。
「もう、行った方がイイよ。何て言って出てきたのか知らないけど、きっと奥さん、心配してる。オレももう、帰るから」
一瞬、柳葉の傘を握る手に力が入る。
織田の口から「帰る」と言う言葉が出た途端。
「帰らないでくれ」
とは言えるわけがなかった。
逢えなかった間、織田だけが「逢いたい」と思い、切なかったわけではない。
織田に告げてはいないけれど、柳葉も逢えない分だけ尚更逢いたいと思った事が何度もあったのだ。
その時の切ない気持ちが、織田の「帰る」と言う言葉に反応してしまったらしい。
ココが何処だかということも忘れて、柳葉は傘を持っていた手から力を抜くと、
それが地面に落ちるのをそのまま無視してスイと織田に身を寄せようとした。
しかし、織田はそんな柳葉の両肩を慌てて押し留めた。
いつもなら、こんな時は織田の方から抱き寄せてくるのに。
怪訝そうに見上げてくる柳葉の額に、そっと唇を寄せてほんの数秒押し付けた織田は、唇を離すとチラッと夜空を見上げていった。
「雨も上がったし、いつもみたいにギュッとね、抱き締めたいんだけど、こんなだから」
言われてみれば、織田はずぶぬれのまま。
苦笑する織田は、その事に失念していたらしい柳葉が赤面してゆくのを覗き込んだ。
「こうして逢ってくれただけで、大丈夫。明日ッからまた東京離れるけど、頑張れそう」
「だから、ね?」という感じで微笑みかけた織田は、柳葉の肩に置いた手の時計を目を移した。
「あ、ホラ。ホントに待ってるよ」
「でも・・・」
「たまにはさ、見送る役オレじゃなくって、柳葉さんに見送って貰うってのもいいかもしんないよね!見送ってくれる?」
「あ・・・うん」
別れの時間が近付くにつれ、無口になっていくのは柳葉の方が常だった。
今夜も柳葉は返事くらいしか口にしない。
自分の肩に掛けられた織田の手を、黙って見つめる柳葉を見ていると、このままもう暫くこうしていようかと織田は思いそうになる。
でも、そうしてしまうと後はもうズルズルと今夜は柳葉を離せなくなるのは判っていたので、自分からは動きそうにない柳葉から手を離した。
急に軽くなった両肩を、柳葉は交差させた両手でシッカリと押さえる。
織田の温もりが逃げてしまわないように。
柳葉の仕草に、負けてしまいそうな自分を叱咤し、今度こそ織田は別れの挨拶を口にした。
「そのうち帰ってきたら、またワガママ言いますから。待ってて下さいね」
「ん・・・」
コクリと頷く柳葉を後に残し、織田はその場から歩き出した。
(あいつ・・・いつもこんな気持ちで、オレを見送ってたんかなぁ・・・)
一歩一歩遠くなる織田の背中を見ながら、柳葉は抑えの効かない寂しさに捕らわれていた。
(『明日からまた東京を離れる』って、言ったよな)
織田との会話を思い出しながら、見送る柳葉だったが、
ポツポツと再び降り始めた雨のカーテンに織田が消されてしまいそうで、柳葉はその後ろ姿に向かって駆けだした。
パシャパシャと地面の雨水を跳ね上げて走り寄る足音に、ゆっくりと織田が振り返る。
その全てが柳葉の方を向く前に、織田に追い付いた柳葉は先程のように押し留められる事も無く、織田の背中に力一杯抱き付いた。
「ウワッ!!」
抱き付かれた織田が声を上げる。
肩越しに、背中にしがみつくように抱き付いている柳葉を見下ろして、慌てて引き剥がしにかかる。
「あと、どうすんの?濡れるって!!」
躊躇することなく、濡れた織田をシャツごと抱き締める。
織田の言うとおり、抱き締めれば抱き締めるほどジンワリと柳葉のシャツも濡れて、
肌さえも湿っていくのがわかったが、抱き締める腕の力は緩めない。
「柳葉さんったら!!」
暫く振り解こうとする織田と、そうされまいとする柳葉は、裏道とはいえ公道でささやかな攻防戦を繰り広げていたが、やがて先に織田が諦めた。
「何の為に、さっきオレが我慢したと思ってンすか」
柳葉は応えない。
「どうせこうなっちゃったんだから、ホラ」
言いながらもう一度柳葉の腕を引くと、今度はあっさりと織田に引かれるままに前にまわってきた。
「あ〜あ、シャツがビショビショじゃないですか」
柳葉の両肘の辺りを掴んでしげしげと見た織田は、呆れたように言った。
我ながら何とも子供っぽいことをしてしまったとの恥ずかしさもあって、顔を上げられない柳葉は俯いたままでいる。
「でも、追いかけてきてくれて嬉しい」
ハッとして顔を上げる。
その顔に酷くなってきた雨粒が、パタパタと落ちてきた。
雨粒に濡れた柳葉の頬を織田が、柳葉の小振りな面などスッポリ入ってそれでもまだ余りそうな程大きな手で包んで拭う。
拭いても拭いても雨は柳葉の顔を濡らす。
大きな眼に吸い込まれるように雨が入り、両目の縁からこぼれ落ちる。
柳葉が泣いているようだった。
織田は柳葉の身体を掻き抱く。
柳葉より大きな身体を丸めて、その身体でシッカリと包むように。
「・・・ネェ、泣かないでよ。なんで泣くのさ。柳葉さん」
優しくあやすように、柳葉の身体が揺すられる。
柳葉は解放された両腕を織田の背中から肩に回し、肩越しに真っ暗な夜空から落ちてくる雨を見上げた。
顔を雨が濡らし、頬を幾筋も伝っていく。
「泣いてなんかいねェよ」
この歳になって、大の男が別れが淋しくて泣くなんて。
「こりゃ『雨』だ。『雨』だよ『雨』」
『涙』では無い筈だった。
柳葉が『雨』だと言い張ったモノは、すでにびしょ濡れだった織田のシャツの肩の辺りを、
駄目押しとばかりに濡らしたが、織田にはその部分だけが特別に暖かい気がした。
肩から体中に広がる、ジンワリとした心地よさ。
これから逢えない時に逢いたくなったら・・・
織田はこの暖かさを思い出せばいい。
逢えない事を辛いと思ったら、今日を思い出せばいい。
どうしても逢いたくて逢いたくて堪らなくなったらその時は。
柳葉の濡れた瞳を見た時の、疼くような胸の痛みを思い出せばいい。
震えるほどに美しい、涙に濡れた柳葉の瞳を。
二人の関係が始まった時から、本当は思っていた。
「我が儘な愛し方かもしれない」と言って柳葉に最後の選択を迫った時から自分の我が儘なんて、実はどうでも良くなっていた。
自分といることで柳葉が哀しむことがないようにと、織田それだけを思っている。
こうして織田が柳葉を想う事を認めてくれていることを、何にも勝ることだと思っていたから。
想うことを禁じられるくらいなら。
物分かりのいい、聞き分けのいい年下の恋人でいようと織田は思っている。
そんな事、何て事なかった。
自分の我が儘よりも、柳葉を想い続けていけることの方が大切だから。
我が儘を言って柳葉を困らせて、無茶をして哀しませるよりも、ずっとずっと大切だから。
想う事を許してくれた大切な人のために、これから先、消えることなく肩に残るだろう暖かさに想いを新たにする。
二度と、この大切な人を失うことのないように。
追いかけて、諦めかけて手に入れた関係だから、追う側だった織田には思いも付かないことかもしれないが、
間違いなく確実に、織田は柳葉にとって大きな掛け替えの無い存在に成りつつあった。
二人が互いの気持ちを解り合うには、余りに逢える時間が無さ過ぎて、声を聞くことさえままならなくて。
だからこそ切なくて、愛しさが増してゆく。
「あなたに逢いたい」
この気持ちがあれば、二人にとって時間も距離もなんの障害にもならないだろう。
この気持ちがある限り・・・きっと、大丈夫。
2000.03.09UP
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