nail2:[痕(あと)]



格子戸の上方、中程。
本来ならば表札の有るべき場所が、表札が取り外され、
今は其処だけが取り残されたように、周りの柱の色より一段も二段も明るい。
これまで経てきた年月相応に、格子戸自体は味わい深い色へと変化しているというのに。
 
 
純日本家屋の軒は、長身の男にとって見上げる程のコトもなく、
取り外されたままの表札の跡を、目線をほんの少しずらしただけで確認することが出来た。
手には、数週間前に送られてきたFAXから千切り取られた住所と、地図の書かれた部分が握られている。
「表札が出てねぇんじゃ、確かめようがねぇじゃねぇか」
フンッと鼻で大きく一つ息を吐くと、男はもう一度紙に書かれた住所と
この家の格子戸の脇に取り付けられた住所の表示板を見比べた。
「コレがあるから何とかなるもんの・・・・・」
ブツブツと口の中で呟きながら、メモと現住所が同じコトを確認し終わった男は、一気に格子戸を引き開けた。
数十年前の日本人の標準身長に合わせたかのような構えの格子戸を、腰を僅かに屈めて潜ると
玄関までは飛び石が玉砂利の上を渡っている。
その飛び石も、家人の気配りからだろう、
真夏の昼日中に遠方からやってくる客のためにと撒かれた水で、黒々と涼しげに輝いている。
「こういうところが、アイツらしい」
日頃見聞きする家人の気遣いの様を思い出すと、自然と笑みが口元に浮かんできた。
浮かんだ笑みもそのままで、男はゆっくりと飛び石を渡り、玄関に立った。
「おーい、居るか?」
 
 
「暑かっただろう?」
玄関先へ一倉を迎えに出てきた室井は、浴衣姿でこう聞いた。
プライベートでは二度目の、友人の浴衣姿に一瞬目を奪われる。
炎天下の外からこの家に入った途端の自然な涼しさを、一倉には室井のその姿からも感じ取れた。
「ああ」
一呼吸置いて、やっと室井に返事を返す。
「冷たいもん用意してるから、まぁ上がれ」
『冷たいもの』と言いながら、室井はキュッと指で小さくお猪口を煽るマネをして笑う。
「それを楽しみに、わざわざ汗を拭き拭き、この炎天下歩いて来たんだ。
 勿論、上がらして貰う」
上着を受け取ろうと差し出された室井の手に、脱いで腕に掛けていた夏用のジャケットを手渡し、
ドッカリと上がり口に腰を降ろした一倉は、カジュアル仕様の涼しげな靴の紐を解きに掛かった。
 
 
座敷に通された一倉は、そのまま座り込まずに、庭の見える障子との境の所まで歩いていって、庭を眺めながら聞いた。
「アイツは?」
一倉の問いに、用意してあったハンガーに一倉から預かったジャケットを掛けていた室井は振り返った。
「青島の事か?」
「他に、誰が居るよ」
一倉は庭の方を向いたままフフンと笑う。
「今日は仕事だ。すまない、せっかく来てくれたのに」
「阿呆ぅ。誰があんなヤツに会いたいもんか。第一、アイツが今日は出勤だってことは確認済みだ」
「え?」
急に一倉の声が小さくなったので、聞き取れなかった室井が問い返す。
「いや、下っ端刑事はご苦労なこったと思ってな。この炎天下によ」
「そだな・・・だが、そんな辛い現場でも『事件』に直に携われるっていうのは・・・・・」
「羨ましいか?」
何かを懐かしむように言葉を途切らせた室井の後を、一倉が変わりに口にしてみた。
「・・・遠くなってしまったからな、今の俺には」
「遠いか?」
「ああ、遠い」
いつの間にか一倉の傍らに立った室井が、一倉同様、庭の方を向いたまま溜め息をつくように答えた。
 
 
ほんの数瞬そうして佇んでいた二人だったが、室井が先に現実に戻ってきた。
「直ぐにやるだろう?」
室井が先程の玄関での仕草をもう一度繰り返す。
「おお、頼む。もう、堪らん」
「その前に冷えた麦・・・」
「オイ!!今更『麦茶』なんて持ってきてみろ。帰るぞ!!
 どーせ持ってくんなら、麦酒(ビール)持ってこい!麦酒!!」
一倉が本気で「帰る」と言っているのが、よくよくわかる室井は笑いながら台所の方へ歩いていった。
 
 
その後ろ姿を見送った一倉は、やっと障子との境から離れ、座敷に設えられた机の前に座った。
一人部屋に残された状態で胡座をかいた一倉は、この家の静かさに改めて気付き感心していた。
住宅街とはいえ、都内だ。
先程歩いてきた、この家への道すがらを思い出す。
それなりに賑やかな通りを抜け、一本脇道に入っただけで驚くほど閑静な住宅街が続く。
その中でもこの家はとりわけて静かにひっそりと佇んでいた。
かといって存在感がないわけではなく、むしろ周りの洋風や和洋折衷の住宅に囲まれて
完璧なまでに純和風に拘った外観が目を引いていた。
格子戸を潜った途端に、まるで外界から遮断されたように訪れる静寂。
真夏の今、勿論聞こえる音はある。
都心の住宅街の緑の中でも、とりわけこの家の庭の見事さに引かれてか、
どこからか飛んできた蝉の鳴き声が絶え間なく庭の木々のそこここから漏れ聞こえていた。
その他に聞こえる音といえば、台所で小さく響く室井が一倉の為に用意をしている
器の音くらいだろうか。
お世辞にも広いとは言えない家の中の物音が、思考の邪魔をしない程度に、心地よい範囲で聞こえてくる。
緊張ばかりを強いられる普段の生活では感じられない、ゆったりとした気分になる。
一倉は胡座をかいた足首に置いておいた両手を後ろについて、大きく顎を反らして伸びをした。
ふーっと心地よさのあまり、大きく息が洩れる。
その一倉が、畳についた手の平に妙な違和感を感じてユックリとそちらに視線を動かした。
そうして手の平を浮かせて彼が見たものは・・・・・
 
 
明日は早朝から会議だからと、8時には暇を乞うた一倉は、
タクシーを呼ぶからと言う室井の申し出を断って、ブラブラ駅まで歩くと言い張った。
「この辺りを歩くのは、案外面白かったんでな」
そう言って、玄関で昼間室井に預けたジャケットを受け取る。
「まぁ、お前が駅に着く頃には少しは酔いも醒めるだろうから、それが調度いいかもな」
室井もしつこく車を呼ぶからとは言わず、駅までの距離を考えて一倉のいいようにさせることにした。
「酒も飯も美味かった。ごっそーさん」
「結局は男料理だから、大したモノも出来なくてな。
 こんなモンでよければ、また来い」
「ああ、また寄らせてもらう(アイツは嫌がるかもしれんがな)」
玄関を出る一倉に、室井は表まで送ると言ってついてきた。
格子戸を出たところで、一倉はフと立ち止まる。
怪訝そうな表情をして、室井が上背のある一倉を背から見上げる。
「ナンデだ?」
「え?」
ゆっくりと振り向いた一倉の視線は室井の方ではなく、もっと上の方に向けられる。
つられて同じ方向を見やる室井。
其処には色が違って、木目さえはっきり見えそうな表札の跡。
「掛けネェのか?表札」
「・・・・・」
「『そのうち』か?」
「・・・・・」
「それとも取り外す時が来るのがわかっているから、それならいっそ掛けずにいようって事か?」
「・・・・・」
見上げていた視線を室井に降ろしてみると、室井の方も表札の跡から視線を外し
腕組みをして、黙って足元を見つめていた。
「他人の俺がとやかく言う事じゃなかったな」
「心配を掛けて・・・すまない」
「あんま、考えすぎンな。また明日、庁舎でな」
ポンポンと室井の肩を軽く叩くと、今度こそ一倉は帰っていった。
後には、一人になってもう一度、表札の跡をを見上げ長いこと立ち尽くす室井が居た。
 
 
やっと家へ入ろうと踵を返した室井の背後から、声がした。
「室井さん」
「青島・・・」
「ただいま帰りました」
「お帰り」
「今そこで、一倉さんに会いましたよ」
「会えたのか?」
「はい。あの人、上機嫌でしたね〜」
「そうだったか?」
「もう、スッゴイご機嫌でしたよ」
「そっか」
「はい」
「夕飯、まだだろう?」
「はい」
「先に風呂入れ。湧いてるから。夕飯をその間に暖め直しとく」
「あ、すいません。じゃ、先に入っちゃいますね。で?今日の夕飯なんですか?」
「今日か?今日は・・・・・」
二人は列んで格子戸の中へ消えていった。
 
 
「ごちそうさまでした」
先程まで一倉が居た座敷で夕飯を終えた青島が、キチンと箸を箸置きに置いて、
両手を合わせてペコリとお辞儀をする。
その仕草がひどく幼く、可愛らしく思え、室井は微笑みながら返事を返す。
「はい、お粗末」
「いや〜、ホント美味かったッス」
「『何よりの調味料は空腹』と言うからな。腹が減ってたんだろう」
「違いますよ!室井さんが心を込めて作ってくれたから、美味しかったんです」
「そりゃよかった」
青島に真顔で力説されて、苦笑してしまう室井だった。
「ところで・・・さっき一倉さんが変な事言ってましたよ」
「変なこと?」
「はい、室井さんに伝えとけって」
「一倉が?なんと言ってた?」
青島が「ん〜」と天井の方に目を遣って、思い出す仕草を見せる。
「なんか、猫がどうとかって」
「猫?」
「『お前らのトコ、猫がいるのか?』って」
「?」
何の事かわからず首を傾げる室井に、青島も首を捻りつつ後を続ける。
「『何の事ですか?』って言ったら、『いるのか?』ってもう一回聞くから、
 『いません』って答えたんですよ。そしたら・・・」
「そしたら?」
「なんか意味深な笑い方しながら
 『室井に伝えとけ。そんなに[痕]が残るのが気になるのなら、猫の爪痕にもよっく気を付けとけってな』
 って、言うんですよ。どういう意味でしょう?」
「さぁ?」
二人とも、一倉が何を言わんとしているのか解らないまま、いつもより一人分多い食器の片付けのため
揃って座敷をあとにした。
 
 
一倉の謎掛けにも似た言葉の意味に、室井が気付いたのはその夜も更けた頃。
普段の、二人だけの生活とは微妙に違う雰囲気がそうさせたのか、
この夜、室井達は珍しく座敷で夜を過ごしていた。
いつもならば互いの気持ちが合った時、自分達のどちらかの部屋でと、
暗黙の了解のようなモノが出来上がっていたので、あがる息の間で室井が思い出した限りでは、
この家に越して来てからこんな風に座敷で過ごすのは、確かまだこれが2度目の事だった。
「室井さん?」
睦み合う最中に何を考えているのかと、青島が少し責めるような拗ねた口調で室井の名を呼ぶ。
「何だ?」
「ひょっとして、今夜は嫌・・・ですか?」
青島は室井の鳩尾の辺りから、室井の顔の両脇に手を付いて見下ろせる位置まで移動する。
「ナンか・・・上の空って感じって言うか・・・・・。疲れてるんだったら今夜は」
「何を・・・言ってる?」
「今日は昼間、一倉さんも来たりして疲れてて。ホントはそんな気分じゃなかったのに
 俺が室井さんを欲しがったから無理して・・・」
皆まで言わせないうちに、室井は青島の頭をゴツッと小突いた。
「私が今までに、無理して『付き合い』で君の求めに応じた事があるって言うのか?」
「え・・・あの・・・・・」
「・・・退いてくれないか・・・・・」
自分から言い出しておきながら、青島は室井の言葉に狼狽える。
室井は青島に対して腹を立てると、必ず青島のことを『青島』とか『お前』とか呼ばず
『君』と限りなく他人行儀な口調で呼ぶようになる。
今も室井は『青島』の名を『青島』とは呼ばず『君』、と確かに呼んだ。
それで狼狽えているのだが、今更遅い。
青島の見下ろす先に在る室井の、表情を消し去った眼差し。
「あの・・・」
その眼差しに見つめられて身動き一つ出来なくなってしまった青島に、室井が一言言った。
「・・・退け」
あまりのことに愕然としている青島をグイと押し退けて、
室井ははだけ掛かっていた浴衣の前を軽く合わせて立ち上がった。
「自分の部屋で休む。おやすみ」
そう言い残して襖を開けて出ていこうとした。
そこでやっと我に返った青島が、慌てて室井の手を掴む。
「待って、室井さん!」
「・・・・・」
振り向いた室井は、何も言わない。
「すいません。俺の方こそ、何か気になっちゃってて、一倉さんのこと。
 帰ってきて、家の近くであの人に会ったでしょう?
 それにさっきっから室井さんも、いつもと違う気がして・・・。
 室井さん、笑うかもしれませんけど。俺、前ッから一倉さんって気になる存在で、
 なんて言うのか、室井さんにとって特別って気がスンですよ。
 べっ別に!!変な意味じゃナイッすよ!!
 ただ・・・俺の知らない室井さんをあの人は知ってるわけで。
 時々本庁に俺が行った時とかに、妙に勝ち誇った態度で
 昔の室井さんのこと聞こえよがしに言うし・・・」
「なんだ、それは?」
そう言っている風に片方の眉を上げた室井に、ますます機嫌を損ねたかと青島が詫びる。
「俺のバカみたいな嫉妬です。ヤキモチ・・・灼きました。すいません」
室井の手を掴んだまま離さずに、青島はオドオドと外した視線を畳に落とす。
その姿が、普段の青島とはあまりに違いすぎて、室井はつい今し方までの腹立たしさも忘れる程の
可笑しさを堪えることが出来なかった。
クッっと小さく笑いが洩れた。
顔を上げた青島の目に、片方の拳を口元に当てて笑いを抑えている室井が映る。
「室井さん・・・」
「本当に、『バカ』だな。『嫉妬』だ『ヤキモチ』だなんぞと・・・。
 一倉のは、『イジメっ子』のソレだ。放っておけばそのうち飽きる。
 私が様子が変だと言うが、それもお前が勝手にそう思ってるだけだぞ。
 それとも何か?私の様子が変なワケをお前知っているのか?
 なら、教えて貰いたいもんだな。ナンデだ?え?青島?」
 
 
いつの間にか室井の言い方は『君』ではなく、『お前』や『青島』に戻っていた。
自分の手もスルリと捻るようにして青島の手から取り戻した室井は、
その両の手で柔らかく自分の足元に跪いたままの青島の頭を抱いて、自分の方へ引き寄せた。
青島も抱き寄せられるまま、室井の軽く自分の腕に収まる、男性にしては細い、
けれどもしなやかで均整の取れた腰を抱き締める。
二人は暫く黙っていた。
どれくらいそうしていただろう、室井が口を開いた。
小さいけれど、はっきりした声で言葉を紡ぐ。
「なぁ、青島。お前さっき『俺が欲しがったから・・・』と言っていたが。本当に、それは違う」
室井の両の手はゆっくりと解かれ、今度は青島の顔の形を両側からそっと何かを確かめるように滑り、
顎の辺りで止まる。
青島は室井に促されたわけでなく、自然と瞼を閉じ、室井の為すがままに任せた。
心もち上向くように込められた力に、青島の面は室井を見上げた。
「私もだ・・・」
言葉と同時に額に、左右の瞼に、こめかみに、頬に・・・最後に唇に触れる暖かな感触。
やっと瞼を開いた青島の目に映るのは、先程の無表情な眼差しで見返す室井ではない。
その身の内の全てを眼差しだけで語る、いつもの青島の求めて止まない室井だった。
室井は静かに、自分も青島のように跪く。
「・・・今夜は・・・私もお前が欲しい」
「室井さん・・・」
「私がお前を『欲しがって』いるんだ。駄目か?」
大きく溜め息を一つ吐くと、青島は室井に口付けようと面を近付けながら笑って言った。
「駄目なもんですか・・・こんな俺でよかったら、幾らでも持ってって下さい」
青島を待つ室井も、微笑みながらこう言った。
「『こんな俺』幾らも要らない。今、目の前に居る。お前だけでいい」
 
 
再び訪れた時間(とき)。
より早く、より荒く、あがる息の合間に、我知らず青島から逃げるように身を捩り、
何かに縋るように室井の整えられた指先が弧を描く。
そんな室井を逃さないとばかりに抱く手に力を込めて自分の方へと引き寄せる青島に、
必死に何かに取り縋るよう伸ばされていた指が、堪らず畳に爪を立てる。
体中で青島を感じ、自分が青島で満たされていると知らされる度、室井は爪を立てずにはいられなかった。
そうして気付く。
以前にも、こんな風に青島とこの部屋で抱き合ったことがあったと。
『そんなに[痕]が残るのが気になるのなら、猫の爪痕にもよっく気を付けとけ』
青島が言付けられてきた一倉の言葉からして、多分彼は昼間、偶然これを見つけたのだろう。
うつ伏せで青島を受け止めながら、視線の先のささくれ立った畳表のい草を見つめる。
 
 
室井は思う。
知らず知らずのうちにこうして自分は、自分の中にも青島の中にもいろいろな形で
『痕』を残してしまうのだろう。
目に見える『痕』、目に見えない『痕』。
こんな風に、目に見える『痕』を消し去るのは容易いことだ。
むしろ消そうとしても容易には消し去ることの出来ない目に見えない『痕』、
これこそが厄介な『痕』なのだ。
見えない『痕』は、その存在にさえ気付かせずに、そのまま何時までも
二人の間に消えることなく存在し続けることになるだろう。
(消すことの容易い、こんな畳に残る爪痕位は、今は付けたいだけ付けてもいいだろう?)
気を付けろと言付けた一見皮肉屋なそれでいて、今の室井の立場や状態に誰よりも、
同僚として、何より友として、気に掛けてくれている一倉に心の内で呟いていた室井は、
次の瞬間には青島にそれ以上、何一つ考えられなくされてしまい、
後はもう今過ごしているこの時間(とき)の事だけを感じ、夜を濃くしていった。
 
 
いつか『痕』だけを残して消え去るかもしれない暮らし。
明日にでもその『痕』さえも残さずに消え去るかもしれない暮らし。
室井が今夜畳に残した爪痕は、これから先、定かではない今のこの暮らしを少しでも長くありたいと願い、
日々を手放すまいと必死に藻掻き、足掻き続ける室井の想いが付けた『痕』なのかもしれない。
 
2000・10・23UP