もう既に、どれ程の時間をこうしているのか、考える事も出来ない。
実の所は然程の時間が経った訳ではなかったのかもしれないけれども、
その時の木崎には、結構な時間が経った様に感じられていた。
展開の唐突さに、頭どころか身体も付いていかない木崎には、
甲太郎によって背が軋むほどに抱き寄せれれ、仰け反らされた体勢では
口付けの合間に容易に息を付くのさえ儘ならなくて、
酸欠で、朦朧としてきていた頭では益々身体が言う事を聞かなくなっていった。
後退りした拍子に、足元が覚束なくなっていてヨロヨロとよろけた木崎は、
調度膝の後ろ側の辺りにぶつかった温室の備品か何かのせいで、
すとんと足から力が抜けて腰が砕けた様になってしまった。
落ちてゆく感覚。
それでも甲太郎の唇は、木崎の唇を追い掛け、離れる事はなかった。
一瞬、離れたかと思う間もなく角度を、深さを変えて、
何度も何度も重ね合わされ続けた。
後で気付くのだが、木崎が足を取られたのは
温室に備えられていたベンチだった。
大人が二人も座れば埋まってしまう様な小ぢんまりとしたベンチの背凭れに、
漸くの事で背を持たせ掛け、相変わらず小振りな顎を掴まれ上向かされたまま、
両の手も一絡げに高く持ち上げられた格好で、
木崎は甲太郎の口付けを受けさせられ続けた。
続く息苦しさに、眦から一筋の涙が流れて頬を伝い落ちて行く。
もう片方の眦からも、盛り上がり、耐え切れなくなった涙が
雫となって伝い落ちようとした時、
見計らっていたかの様に漸く木崎の唇は甲太郎の唇から解放された。
木崎の零れかけていた涙は寸でのところで、
今度は眦に触れてきた甲太郎の唇に受け止められ、頬を濡らす事は無かった。
「・・・・・・・・・・は・・・ぁ・・・・・・・・」
震えるようなか細い吐息が、木崎の薄く開かれたままの唇から漏れた。



感情の昂ぶりに任せて、かなりな強さで掴んでいた木崎の顎から、
添える程度に力加減をした甲太郎は、思い出した様に
高い位置で絡め取っていた両の手も
苦痛を感じない程度の低い位置へと戻したが、
変わらずに一纏めに掴んだままの手首を手離す事はしなかった。
未だに開かれる気配の無い木崎の瞼から
零れ落ちてしまった一滴の涙の跡を追って、
眦から頬へ、頬から顎へ、顎から首筋へと唇で辿ってゆく。
そうして涙の痕跡は、遂には木崎の軍衣の詰襟の中へと消えていたが、
流石にその先へ追跡は躊躇われた。
それでも外せない視線を、どうにか木崎の咽喉元の辺りから逸らせると、
今更に闇い情動の赴くまま、後先の見境無しに暴走した己に嫌気が差してきた。
無理強いなど・・・・・
以前の木崎の上司の横田達と自分に、どれ程の違いがあるのかと、
自嘲が込み上げてくる。
生まれて初めて、[愛しい]と思える存在に出会えた喜びに、
戸惑いながらも自分の精一杯で木崎を見てきた筈が、
最初から家庭を持っている人と、他の人を追い求めている人と知っていた筈が、
例えそうでも己の内で想う気持ちを抱き続けていくだけだからと思っていた筈が、
いざとなると名前を聞いただけで面影を探す様に彷徨う視線に胸は焼かれ、
何よりも報われない自分に対しての気を回した物言いや態度が
劣情に拍車を掛けた。
安寧の時代ではない。
明日をも知れない時代に出会ってからの時間は大して長くはないけれど、
甲太郎の中では、それでも容易には棄て去れない程に重く、
大切な物となっていた。
とは言え、結局木崎が想っているのは甲太郎ではなく、
少しでも彼の為になればと配属部署の特権を生かして
先方の復帰時期が分かりはしないかとアチコチに探りを入れてみたり、
任務先からの帰還の途中で、
わざわざ近況を知るべく先方の任地に立ち寄ったりもしたし、
挙句には実際に面会までもして先方の様子を確認してきた。
全ては木崎が在っての、木崎の為を思っての事だったのに・・・・・・・。



「許してくれ・・・・・・・」
自己の思考の淵に沈んでいた甲太郎を、微かな呟きが引き上げる。
「!?」
せっかく甲太郎が唇で消した筈の涙の跡をなぞる様に、
今再び、堅く瞑られた瞼の端から零れた新しい涙が
木崎の頬を滑り落ちてきていた。
まだ伝えてさえいない自分の気持ちに、
応えられない事を許せと言っているのだろうか?
それとも縛めを解いてくれと言っているのだろうか?
しかし、木崎が考えていたのは、そのどちらでもなかった。
妻に愛娘に、そして絹見に対しての懇謝の呟きだった。
初めてだったのだ。
目も眩む様な口付けは。
そうして自覚してしまった。
これまで、自分には家族や絹見が居る風を装いながら目を逸らしてきた、
自分の甲太郎に対する想いを。
もう・・・妻に子に、絹見に、「許してくれ」としか言えなかった。
初めてだったのだ。
若い盛りの時でさえ、妻との数え切れぬ営みの中でさえ知らなかった、
たった一度きりの絹見との口付けと抱擁でさえも遥か遠くに思える程に、
それほどに甲太郎の口付けと背の軋む程の抱擁は、
誰よりも、何よりも、自分だけを欲してくれている様に思えた。
家族に縁の薄かった幼少時代のせいか、家族を持つ事に人並み以上に憧れ、
そして手にした大切な家族。
なのに、それでも無くならない焦燥感に絹見を求めた。
どちらをも木崎が追い、求めた。
初めてだったのだ。
木崎が[追う]のではなく、[追われた]のは。
初めてだったのだ。
これほどに、自分を欲してもらえた事は。
だから申し訳なくて、嬉しくて、涙が零れたのだ。



甲太郎は考えた。
どう考えても、木崎の「許してくれ」の意味は、
今現在、こうして自分に不本意にも拘束されている事からの開放を願っての
「許してくれ」であろうとしか思えなかった。
無理もないと思う。
訳も分からない中にいい様にあしらわれ、今のこの状態に至っているのだから。
では、手を離したら、木崎はどうするだろうか?
一纏めに掴んでいた手を離した途端、その実、激情家の木崎の事だ、
拳の一発・二発、或いはそれ以上の最悪を
覚悟しておかなければならないだろうと思えた。
それでも、大の男が泣く程に嫌がっているのだ、
しかも、相手は自分が[愛しい]と思っている人なのだ。
手を離し、拳もそれ以上の報復も甘んじて受けようと思うに至った。
早速、まずは顎に触れるだけの状態で添わせていた片方の手を離す。
そうして両の手をしっかりと一纏めに掴んでいたもう片方の手も。
後は、「さぁ、何時でも殴ってください」とばかりに、身体の位置は動かさず、
木崎の真正面の近い場所で制裁の時を甲太郎は待った。
けれども絡め取られていた間から拳の形に握り締められていた木崎の両の手は、
甲太郎には向かってこなかった。
拍子抜けしつつも木崎の両の手を見詰めていた甲太郎の眼の前で、
拳は解かれ、掌同士が小刻みに震えながら合わされた。
酷く緩慢な動作で、木崎はその合わさった両の手を自分の唇に押し当てた。
ベンチに腰を下ろしたまま仰向いて手を合わせている木崎の様子は、
見下ろす甲太郎に神仏への合掌を連想させた。
手を合わせる。
祈る様に、拝む様に。



「許してくれ・・・・・」
震える唇が、もう一度微かに呟いた。
拘束を解いても尚、「許してくれ」と言い募る木崎に、
居た堪れなくなった甲太郎は、呟きの意味は分からなくとも、
震える木崎の様子を見続ける事は出来そうもなくなって、
驚かさぬ程度の声音で呼びかける事にした。
「き・・・・・」
名前の、最初の部分を口にした時だった。
それまでずっと閉じられていた瞼が、何の前触れもなく開いて、
甲太郎はその先を続ける事が出来なくなった。
其処に涙は無かったが、いつもは綺麗な白い部分が
真っ赤に充血していて痛々しい。
それでも、黒い瞳は微かに残った水気に潤んで、
更に黒味と輝きを増して見えた。
溜息が出る程、綺麗な黒だった。
甲太郎は木崎の名を呼ぶ事も忘れ、黒々と艶めく瞳を覗き込むばかりだった。



唐突に、ドクリと胸が音を立てる。
魅入られた甲太郎が見詰め続けていた黒い瞳の底に、
有る筈のない感情を見た気がして。
絶対に有り得ない、自分ばかりに都合の良い事を思って、
ドクリと胸が音を立てる。
覗き込む甲太郎の視線を避けることも無く、木崎が見返してくれている気がして、
ドクリと胸が音を立てる。
甲太郎に重要な何かを伝えようとしている様に思えて、
ドクリと胸が音を立てる。
そして続け様にもう一度、木崎の震える唇が、言葉を綴ろうと、
小さく息を吸い込んだのを感じ、ドクリと胸が更に大きく音を立てた。
甲太郎は木崎の合わさった掌に、咄嗟に自分の掌を重ねた。
驚いた木崎の唇は言葉を含み込んだまま、
そこで凍りついてしまったらしく後は続かない。



甲太郎の中で、「今だ」と声がした。
「今しかない」とも。



木崎が自分に言ってくれるであろうと、言って欲しいと、
望む言葉は、何故だか甲太郎が木崎に告げたい言葉と同じ綴りの言葉に思え、
けれどもそれを、木崎から告げさせてはならない様に思えて、
甲太郎は重ねた手に自分も唇を押し当てて、らしくもなく震える声で、
くぐもってはいたけれど、それでもはっきりと木崎に届く声で、
長い事木崎の事を想う度に、必ず心の内の同じ場所に、
何時も何時も在った言葉を差し出してみせた。
「貴方が、好きです」
想う時間の長さに比べ、声にしてみれば、それは瞬く間程のもので。
それでも・・・・・。
木崎の瞳はより一層、大きく見開かれ、一旦は逸らされた。
表情より雄弁な其れは逡巡を示していたが、
僅かな間に、どうにか彼なりに甲太郎の言葉を噛み熟したらしい。
思い定めた様子で、改めてゆっくりと、殊更ゆっくりと、
木崎は甲太郎の視線に自分の視線をもう一度合わせてきた。
遂に木崎が自分の心の内を甲太郎に伝えるべく口を開き掛けたその時、
被さってきた声がそこから先へ進む事を遮った。
「今は・・・・・」
木崎の大きな瞳に映った甲太郎は、
一時前の荒々しさが嘘の様に穏かに微笑っている。
「今は私が貴方を慕っている事を知るだけで・・・・・」
応えは要らないと微笑う。
全ては劣情をぶつけてきた甲太郎のせいと。
自分は甲太郎の若さに流されただけだという事にしておけと。
家族と絹見という[逃げ道]を残しておくからと。
甲太郎は穏かに微笑っている。
言葉も失くして自分を凝視する木崎を、重ね合わせていた手を離した甲太郎は、
今度こそ闇い劣情からでなく、心からの慕情で腕を広げ、
木崎を胸の内へと抱き込んだ。



[逃げ道]。
そういえば・・・と木崎は甲太郎の懐に抱き込まれて考える。
絹見にも、同じモノを用意してもらっていたと。
はっきりと言葉にしてくれた訳ではなかったが、確かに。
自分の家族を、相手の性別を、挙句は職務を、時代を思って
竦み上がり、怯え切って身動きの出来ない木崎の為を思っての[逃げ道]を。
そうして艦を去る間際の短い二人きりの時間に、
絹見は亡き妻を、木崎には愛娘と帰りを待っている筈の妻の事を
引き合いに出して、気にせずに、これまで通りの日々へと立ち戻れと。
その後の日々を思い返せば、後悔とあの人に対する渇望ばかりの日々で、
持て余した心に、[逃げ道]だった筈の家族の存在にさえ追い詰められた。
その頃の自分を思い出すと徐に、自分の身体に廻された腕が意識された。
精神的にも肉体的にも追い詰められた崖っぷちで、
今にも落ちそうになっていた自分を、時には直ぐ傍で、
また或る時は直ぐに其れとは気付かせない程遠くから、
幾度となく、救ってくれた腕だった。
不思議と安心する暖かさを備えた腕の持ち主を、改めて思ってみる。
己の甲太郎に対する想いはほぼ間違いないであろうと思えたが、
それでも今夜、漸くの事で思い至り、向き合った感情で、
木崎にはそれでどうなる?どうする?と考える所まではまだ遥かに遠くて、
今は甲太郎が言ってくれた言葉に甘える事を良しとして、
[逃げ道]を塞がずに、申し訳なく思いながらも暫くは、
行きつ戻りつしながら己の心持ちを確かなものにしてゆきたいと思う。
けれど時代が時代だ。
余り時間は無いだろう。
また後悔するのは、何としても避けたかった。
だから時代が許す限りの速さで、この気持ちを確かめる事にした木崎だった。



離し難さに、このままいつまでも一緒に居たいと思っていた甲太郎だったが、
流石に周りを気にして耳を澄ませれば、
先程から既に何曲目だかの音楽が終わるところだった。
エンディングのフレーズに聞き覚えがあった。
木崎の身体に廻していた自分の腕を、
甲太郎は気分的には引き剥がす位の努力をもって、どうにか解いた。
ずっと屈みこんだ状態のままだった身体を伸ばし、
今度は首だけ傾けて見下ろせば、
それまで間近だった視線が酷く離れた気がする。
そんな風な事を考えていた甲太郎を見上げた木崎のまだ赤い眼は、
けれどもそれまで無かった力強さが伺えて、しっかりと甲太郎を見詰めてくる。
もう一度抱き寄せたい衝動を今度こそはどうにか抑えて、
ベンチに座っている木崎に向かって甲太郎は片手を差し出した。
「立てますか?」
「・・・・・」
貰えない返事に、甲太郎の顔は無理もない事と苦笑に歪む。
やはり、先程の無礼をきちんと詫びておかなければと思う。
「・・・・・先程は、本当に申し訳・・・・・・・」
「一人で立てる」
はっきりとした声が、甲太郎の侘びを遮った。
甲太郎がハッと凝視すれば、視線の先で言葉どおり、
木崎はさっさと立ち上がってみせた。
「怪我をしたとか言う訳じゃないんだ」
「しかし・・・」
立ち上がった事でまた少しだけ近付いた甲太郎の視線に、
今度は眼の縁が恥ずかしさから薄赤く染まったのを隠したくて、
木崎は片手で軽く拳を握り、その手でドンと軽く一つ、
甲太郎の軍衣の胸の辺りを叩いた。
「『しかし・・・』じゃない。
 お前が言ったんだろうが、館の方に戻らなきゃ不味いって。
 お互い、もう浅倉大佐や大湊中佐から探されている頃かもしれない。
 行くぞ、ほら」
「・・・でも・・・」
呟いて立ち尽くす甲太郎に、木崎は小さく叫んだ。
「もう気にしてはいないと言ってるって気付け!!」
そして、それだけ言うと甲太郎を一人置いて、
木崎はさっさと早足で温室の出入り口へと向かった。



扉を潜っても、甲太郎はまだ木崎を追って来てはいなくて、
漸く追い付いたのは館の手前の西洋庭園の中程だった。
温室から走ってきた様だったが、
普段から鍛えているらしい甲太郎の息は上がってもいず、
何事もなかったかの様に木崎の一歩後ろに付いた。
「隣に、くればいい」
木崎の言葉に息を呑む気配の後、
甲太郎は今度は素直に木崎の隣を歩き出す。
サクサクと手入れの行き届いた芝生を踏む二人の足音が、
夜の庭園に吸い込まれ消えてゆく。
やがて二人の足音を消すのは、庭園から館の賑わいに取って代わり、
同時にそれは、今夜の久方振りの再会の御仕舞いをも知らせる。
二人はどちらからともなく立ち止まり、互いを見遣った。
双方の面には穏かな笑みが浮かんでいる。
相手の笑顔に、其々が新しい始まりを感じ、
もう一度微笑を交し合った二人は、互いの上司や同僚の待つ館へと、
残り僅かな階段を一気に駆け上った。


                                〜晩餐会にて・END〜