ものの数分で、脱いだものを片手に室井が出てきた。
調度、室井の分のコーヒーも運んでこられ、
青島の隣に用意されている。
「ご馳走になります」
コーヒーに口を付けた室井を待っていたかの様に、
2人の向いに腰を下ろしたオーナーが口を開いた。
「今日は、安心致しました」
「え?」
オーナーの言葉に、室井と青島が同時に声を発した。
一瞬2人は顔を見合わせたが、
先を促す様にオーナーの方を見たのは室井の方が早かった。
「いえ、うちの永田が」
すかさず、鏡の前で室井の仮縫いのスーツを縫製用のボディに着せ直していた職人が
室井たちの方に会釈した。
「ああ、彼が永田でして」
この店の常連で、いつも永田にフィッティングして貰っていて
名前も知っている室井にではなく今日始めて店を訪れた青島に対して、
オーナーが改めて職人の事を紹介する。
後始末を終え、手に持っていたメジャーを首に掛けながら、
永田が室井たちのいるテーブルに近付いてきた。
「室井様には、いつもわざわざ私をご指名いただいております」
嬉しそうに目尻に皺を寄せて永田が笑う。
「永田さんに任せておけば、間違いないんだ」
室井も信頼しきっているのだろう、微笑を浮かべる。
「へぇ、そうなんですか」
青島はといえば、室井と永田の客と職人としての
確固たる信頼関係にしきりに感心して頷いている。
「その彼が、今回の仮縫いに関しては、特に心配してましてね」
「なぜ?いつもどおりなら・・・心配はないんじゃ?」
興味津々で青島が永田に尋ねる。
「それが・・・お仕事がお忙しいからでしょうか。
 この所、新しいスーツをご注文頂く度に、微妙にサイズが変わっていらっしゃいまして。
 毎回、少しずつではあるのですが、お痩せになってお見えになっていたものですから、
 もしや、今回もと思って心配しておりました」
ギョッとして青島が室井の方を見遣った。
「今日のスーツはピッタリでしたが・・・・・」
室井にとっても初耳だった様だし、自覚がないのか不思議そうに首を捻る。
「毎回、本当に僅かでございましたから。
 ご自分でもお気付きになっていらっしゃらなかったのかもしれませんですね。
 それが今回は、前回から僅か程も変わらずにいらして下さったので、
 私の事のように、ホッと致しました」
「本当に、今回は前回よりも痩せてなかったんですね?」
確かめるように、青島が聞いた。
「はい、今回は前回とピッタリ同じサイズでいらっしゃいました」
「良かったですね、室井さん」
「ああ」
青島の予想では、返事はそう来るはずだった。
けれど室井はこう言った。
「困った」
「は?」
そこに居た全員が室井を見た。
「室井さん?」
「じゃあ、以前作ったスーツは合わないって事だろ?」
「・・・・・室井さん。
 あんた、何言ってんですか?
 まさかあんた、それ以上痩せたいってんじゃないでしょうね?」
「そうは言ってない。
 永田さんに作って貰ったスーツを私はとても気に入ってるんだ。
 その中でも、特に気に入っている物が何枚か有って、
 大切に着ようと思って仕舞ってあるのもあるんだ。
 つまり、今着ようとしても大きいって事だろう?
 本当に気に入ってるのに、合わないなんて・・・・・困る」
「じゃあ、元のサイズまで戻んなさい。
 そんなつまんない事位で悩まないで下さい!!」
「何だそれ。
 簡単そうに。
 [つまんない事]って言うな!!」
室井がムッとして青島を睨み付けるが、前髪が下りている分、いつも程の威力はない。
「今回は忙しかったのに、痩せてなかったんでしょう?
 ならいいじゃないですか。
 スーツより、あ、スイマセン。
 室井さんの身体の方が大事でしょう?
 室井さんの身体が一日でも早く元に戻る様に、
 俺がセッセと旨い飯作って食わせますから」
一気に言って、青島はハッとした。
目の前の室井は完全に固まってしまっている。
周りの店員達はというと、ある者は室井同様固まり、
ある者は驚愕し、そしてある者は・・・・・。
そんな中で、オーナーと永田だけがニッコリと笑っている。
「ああ・・・それで解かりました」
「何がです・・・」
下ろした前髪を、クシャリと掻き上げながら室井が聞いた。
「この方の影響でいらしたんですね」
「今回、サイズがお変わりにならなかったのは」
オーナーと永田が交互に答えた。
「彼は・・・」
数拍、室井が言い淀む。
「私と一緒に住んでまして」
流石に、今度こそオーナーと永田の笑顔が微かに引き攣った。
「同居人です!!」
青島が叫んだ。
「今流行の[ルーム・シェア]ってヤツです。
 俺、室井さんの部下なんです。
 室井さんが一軒家借りる事になって。
 俺、独身なんですよ。
 その・・・身軽な独身者の部下ってのが俺だけだったもんで。
 薄給でヒィヒィ言ってる俺を哀れがってくれたんです、室井さん。
 余ってる部屋でよければ、どうだって。
 だから、その・・・・・」
呆気にとられて見ていた店員達の中から、一人が我慢できずに吹き出したのを皮切りに、
皆が我慢できずに一斉に笑い出した。
店内を笑いが満たす。
「え・・・あれ?あれ?」
周りを見回す青島の目の端に、頭を抱える室井の姿が映った。



「では、最後にあちらでスーツとベストに使うボタンを決めていただけますか」
笑いの波が引き、その場が一段落したところで室井は永田に促され席を立った。
「これが済んだら帰れるから」
言い置いて、室井は店の片隅に歩いていった。
その後ろ姿を見送りながら、青島が大きな溜息を付いた。
それを聞いていたオーナーが微笑む。
「先程は、皆で笑ってしまいまして。
 本当に、申し訳ございませんでした」
「え?や、いいんですよ。
 アレじゃ笑われてもしょうがないし」
照れも混じった苦笑を返す。
「安心致しました」
「はい?」
「室井様が、初めてウチにお越しになって以来、
 どんどんお痩せになっていかれるのを、
 私共は実際のサイズでもって存じ上げておりましたので
 皆で心配しておりました。
 このままではこの先、どうなっていかれるのかと・・・・・」
青島とオーナーは、ボタンのコーナーで
あれこれと永田や他の店員を相手に相談をしている室井を見遣る。
「お身体だけではありません。
 一時は、張り詰めてピリピリとしておいででしたから。
 今では雰囲気も、柔らかくなられて私達もほっとしております」
オーナーの言葉に、青島は自分の知る嘗ての室井を思う。
「それにしましても、室井様と貴方様との共同生活。
 目に見える様でございますよ。
 あの方にとっては、よい毎日を過ごしていらっしゃる様ですね」
「そうでしょうか?
 そうだったらいいんですが・・・・・」
青島は鼻の頭を掻いた。
「そうですとも。
 大丈夫、私達が拝見致しましても、
 充分に、今のあの方のお暮らし振りが分かります。
 以前のあの方は、あんな風にお笑いになったりはなさいませんでしたよ」
選び終わったのか、俯いてボタンを見ていた室井が
青島に満足気な笑顔を向けて寄越していた。



室井が青島達の元に歩いてきた。
「待たせたな。
 これで終わった。
 家に帰ろう」
「お疲れになりましたでしょう。
 どうぞお気を付けてお帰り下さい」
オーナーが優しい気遣いの言葉をくれる。
「こちらこそ、長居をしました。
 また寄らせてもらいます」
「お待ちしております」
別れの挨拶を交わしていると、女性店員が近付いてきた。
「オーナー」
上司に声を掛ける。
チラッと声の方を見たオーナーが「忘れていたよ」と言った。
「それは、君からお渡しするのがいいだろう」
そういって女性店員を促した。
促された女性店員が、室井と青島の前に小さな手提げ袋を差し出す。
「どうぞ」
差し出された袋は二つ。
「これを?」
「俺達に?」
室井と青島は、其々に袋を受け取った。
受け取った紙袋は某有名ショコラショップの物で、綺麗なラッピングが施されていた。
「今日だけのサービスでございます。
 差し出た事ではありますが、本日お越し下さいましたお客様方への、
 女性スタッフ達からの心ばかりのプレゼントでございます。
 どうぞ、受け取ってやっていただけませんか」



オーナー達に見送られ、二人は大通りに出た。
冬の太陽は、既に西へと傾き始めていた。
青島の何歩か前を、見慣れた自分よりも一回り華奢な背中が歩いている。
その背中に向かって、青島は独り言を口の中で呟いた。
「俺・・・余計な事言っちゃって・・・・・」
「だからだったんだな」
青島の言葉に、室井の声が被さってくる。
ふと室井の足が止まり、同じだけの距離を保って青島も立ち止まる。
2人の傍らを、何人もの人達が通り過ぎてゆく。
数人のOLのグループが、
流行の店の載った本を片手に笑いさざめきながら軽い足取りで擦り抜ける。
仕事先へと急ぐ先輩と後輩らしいサラリーマンが、
時計を気にしながら駆けて行く。
ベビーカーを押した若い母親は、
ベビーカーの中を覗いて我が子に笑い掛けている。
中年の女性同士の2人連れは映画の帰りか、
パンフレットを指差しながら回りにぶつかる危険よりもお喋りに忙しい。
人目も憚らない若い恋人達は、
溶け合いそうな程に身体を密着させてユラユラと歩いていった。
反対側には初老の夫婦が互いを労わり合いながら、
殊更ゆっくりとした歩みで過ぎてゆく。
沢山の、沢山の人の中で2人は立ち止まったままだ。
自分達を取り巻く雑踏等どうでもよかった。
青島は、室井の次の言葉を待ち続けた。
「青島・・・」
待ち兼ねた室井の声が聞こえたのは、
どれ程の時間が経ってからの事だったろう。
間髪入れずに青島は返事をする。
「はい」
「隣に来ないか。
 一緒に並んで歩こう」
大きな声ではなかった。
むしろ押さえ気味の、普段青島の聞き慣れた室井の声より尚も小さな声だった気がする。
それでも偶然近くで鳴らされた車のけたたましいクラクションにも負ける事無く、
室井の声は青島に届いた。
青島は返事を返さなかった。
その代わり、室井が振り見た時にはもう、
日頃の外回りで日に焼けた顔に柔らかな笑みを浮かべて隣に並んでいた。
見上げた室井は、二度、三度と瞬きを繰り返す。
青島にはその様子が、先日署に保護された迷子の男の子が
精一杯に泣くのを我慢していた時の仕草に重なってしまう。
保護欲めいたもので胸が締め付けられる。
きっと、自分のさっきの発言が室井をナーバスにさせてしまったのだと
思い込んでいる青島は室井に申し訳なくて堪らなくなる。
「せっかくの楽しい休日が、俺のせいでおじゃんになっちゃって・・・」
「何言ってんだ」
室井は素っ気無く返す。
「だって・・・俺があんな事言わなきゃ、室井さんだって!!」
「青島」
大きな声ではなかったがそれ以上を言わせない強さが、室井の声にはこもっていた。
「は、はい」
「大の男が2人、通りの真ん中で突っ立ってちゃ周りが迷惑だ。
 行こう」
「・・・はい・・・・・」
大人しく、青島は室井の言葉に従った。
再び押し黙って歩き出して数分、やっとまた室井が口を開いた。
「あれは・・・正直参った」
「やっぱり」
「けどな、不味いと思ったからじゃない。
 第一、『一緒に住んでる』の言い出しっぺは私だ。
 そこんトコは、キチンと言っとく」
「はい?」
「私が不味いと思ったのは、イキナリだったからだ。
 一緒に暮らしてるのが彼等に知れたからって、どうって事はない。
 まぁ、自分から言った『一緒に暮らしてる』ではなくて
 君から先に『同棲している』とでも宣言されていたら 
 軽い意識障害ぐらい起こしていたかもしれないがな」
「・・・む、室井さん?」
「つまり、だ。
 君は気を回し過ぎてると言いたいんだ」
青島は立ち止まる。
「だって、室井さん!
 アンタ、さっきっからずっと考え込んでるみたいだったじゃないですか。
 だから、だから、俺のせいだって思って!!」
「しぃっ!!
 声がデカイ」
慌てて、青島は自分の口を押さえた。
何時しかチラチラと周りの視線が2人に向けられ始めていたようだ。
室井は大きく息を吐くと、青島の手を取ってその場から逃げ出すべく歩き出す。
「私が考えてたのはコレだ」
歩きながら掴んでいた青島の手を離し、
代わりにもう片方の手から持ち替えて青島の目の前に室井が差し出したのは
先程の小さな紙袋。
「私は・・・いつも、こういう事には酷く疎くて・・・・・」
そう言って室井は、今度はチョコの入った紙袋を自分の目の高さに持ってゆく。
「[2月14日]と聞いても、まるで浮かんでこない。
 今日だって、ちゃんとカレンダーも見たんだ。
 それでも、まるで気付きもしなかった。
 さっき、あの店で『チョコだ』『今日はバレンタインだ』と言われるまで・・・・・」
室井の目の前では、まだショコラの入った紙袋が揺れている。
「そうして考えていたんだ。
 今日の私と君の重なった休日。
 ひょっとすると、偶然じゃなかったのじゃないかと思った。
 君がわざわざ無理をして合わせてくれたのじゃないかと」
眼差しが、紙袋から青島へヒタリと据えられる。
室井に見据えられた青島はうろたえて足が止まりそうになるが、
室井がプイと自分を置き去りにしたままスタスタと歩いて先に行ってしまい掛けたので
慌てて我に返ってその後ろ姿に追い縋る。
追い付いて、もう一度肩を並べた青島を待って室井が聞いてくる。
「刑事課の皆に、迷惑掛けたんじゃないのか?」
「掛けてません!!」
チラリと室井が視線を寄越す。
「ホントです!
 カッコ悪いから言いたくなかったんだけど、
 この休みの前、俺達ちっとも会えなかったでしょう?
 泊まりや休日、皆に代わって働いてたんです。
 今日、どうしても休み貰いたかったんで。
 その位頑張んないと、[今日]休みが欲しいなんて言えなくて。
 だから、明日っからまた暫くはなかなか会えないかも・・・・・」
「[一緒に住んでる]のに?」
「・・・はい・・・」
「それは・・・寂しいな・・・・・」
言ってから、自分の言葉に室井の横顔が仄赤く染まるのと、
室井の言葉は勿論の事、その横顔に青島までがポオッとなってしまう。
気恥ずかしさを振り払う様に、何度か頭を振った室井が言った。
「いつも気に掛けていてくれて、本当にありがたいと思っているし、
 何より・・・嬉しい。
 私は君に教えられたり、気付かされてばかりだ」
「室井さん・・・・・」
「たまには私にも言わせて欲しい。
 一年に一度、大事な人に気持ちを伝えられる大切な日なんだそうから」
ふわりと笑ってみせる。
「君に出会えて良かった。
 こんな陳腐な言葉では、想っている事の半分も伝わらないだろうけれど。
 君を心から愛している」
「室井さん・・・」
不覚にも、今の青島には室井の名前を繰り返す事しか出来ない。
行き交う人々の波に乗って、2人は歩き続けた。



「さぁ、明日っからまた暫くはなかなか会えないんだろう?
 なら早く家に帰ろう。
 貰い物だがチョコも有る。
 帰ったら2人でこのチョコでも食べながらゆっくり過ごそう?」
室井が軽く振った紙袋の中で、チョコがコトコトと笑うように跳ねる音がした。
「・・・はい、室井さん」
青島が苦労してやっと作った笑顔はビルの窓に反射した光が眩しいせいなのか、
それとも、日頃口の重たい室井の思いがけない告白を聞いて
涙ぐみそうになるほど嬉しかったのをごまかそうとしてそうなったのか、
多分後者だとは思うのだけれど、情けない程にくしゃくしゃの、
日頃は男らしい眉さえハの字になった、それでも幸せに溢れた笑顔だった。
大通りを歩く沢山の人々は、其々に笑いさざめき合いながら2人と擦れ違ってゆく。
街の其処此処に『バレンタイン』の文字や『ハートマーク』が踊る。
2人の会話に気を止める人などいない。
それでも極稀に2人が肩を並べて歩く様が余りに満ち足りて見えるのか、
それに惹かれる様に振り向く人もいた。
「・・・・・いいなぁ・・・・・」
呟いたのは、何処の誰だか判らない。
家路を急ぐ二人にも、その言葉は届かなかった。
今は只、一時でも早く家に帰りたかった。



GO HOME,
GO HOME,
GO SWEET HOME.